「パレスチナ管弦楽団」はユダヤ人の楽団だった ── ワーグナーはいつ消えたのか
1936年創立の「パレスチナ管弦楽団」は、欧州を追われたユダヤ人楽員の楽団でした。シュトラウスは1936年に創立者が外し、ワーグナーは1938年11月、水晶の夜の後に定期会員の訴えで前奏曲1曲を取りやめたのが始まりです。手紙と研究書の頁で確かめます。
English summary
This article reads four books on the founding of the Palestine Orchestra (1936), today's Israel Philharmonic. Bronisław Huberman's letters show a pan-European who, from 1934, turned to Palestine and framed the orchestra as a refuge for musicians dismissed under the Aryan paragraph and as a "cultural defence against the ignominious lies of Hitlerism". Hirshberg's social history gives 73 founding players, 53 from Europe, and 44 founders still in the orchestra in 1948. The record separates two cases. Richard Strauss was excluded by Huberman himself in a letter of 27 September 1936, because he had served as president of the Reichsmusikkammer. Wagner was not banned from the start: his music was played in the Yishuv from at least 1912. The first cancellation came after Kristallnacht, when subscribers asked the orchestra to drop the Meistersinger overture planned for late November 1938, and the orchestra complied; the Tannhäuser Bacchanale was played in Egypt around the same time. Who decided, and why one cancellation hardened into a lasting boycott, these books do not say. Discrepancies between the sources are listed.
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1936年12月26日、テルアビブの見本市会場を改装した仮設のホールで、トスカニーニが新しい楽団の最初の演奏会を振りました。楽団の名は「パレスチナ管弦楽団」(The Palestine Orchestra)、のちのイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団です。創立時の楽員73人のうち53人はヨーロッパから来た人たちで、その多くはナチ政権下のドイツ語圏の楽団を追われたユダヤ人でした。この楽団が長くワーグナーを演奏しなかったことはよく知られていますが、手元の記録を頁で追うと、リヒャルト・シュトラウスとワーグナーの扱いは別々に、別の時期に、別の決め方で始まっています。シュトラウスは1936年に創立者フーベルマンが手紙1通で外しました。ワーグナーは1938年11月、水晶の夜の後に定期会員の一団が訴え、楽団が『マイスタージンガー』前奏曲1曲を取りやめたのが始まりで、それ以前のパレスチナのユダヤ人社会ではワーグナーが普通に演奏されていました。本稿では、創立の経緯、楽員の出身、名前の「パレスチナ」が当時指したもの、曲目をめぐる論争を、4冊の本の原文に当たって確かめます。資料どうしの食い違いも最後にまとめます。
使った本は、ヒルシュベルクの社会史『Music in the Jewish Community of Palestine 1880-1948』(1995年)、フーベルマンの秘書イベッケンらが編んだ手紙・演説集『An Orchestra is Born』(1969年)、グラーデンヴィッツの通史『The Music of Israel』(第2版1996年)、楽員の証言を集めたハギン『The Toscanini Musicians Knew』(第2版1980年)の4冊です。以下、文末の ◎ は原文の頁で確かめた箇所、○ は読書メモによる箇所、△ は手元の本に無い一般的な知識、孫 は本が引いている第三者の言葉(孫引き)を示します。
1936年12月26日、テルアビブ
開幕の演奏会は国民の祝日のような騒ぎになり、切符は数時間で売り切れ、トスカニーニは総練習を一般に開放しました1。◎ 最初の8日間でテルアビブ、エルサレム、ハイファの3都市で1万5,000人が聴き、楽団はそのままカイロとアレクサンドリアへ演奏旅行に出ています1。◎ 1969年の書簡集の巻末にある楽団史は、開幕の聴衆を3,000人とし、トスカニーニの到着を12月19日と書いています2。◎
曲目はロッシーニの序曲、シューベルトの交響曲第8番、ブラームスの交響曲第2番、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』、ウェーバーの『オベロン』序曲でした3。◎ イタリア物はロッシーニ1曲だけで、残りはドイツ語圏の作曲家です。ヒルシュベルクはこれを、曲目が創立者フーベルマンの好んだ独墺の古典派・ロマン派に寄っていた例として挙げています3。◎
会場は、テルアビブの海岸にあったレヴァント見本市のパヴィリオン2棟をつないで、2,500席を入れたものでした4。◎ 12月の豪雨は薄い屋根を叩いて音を立て、楽器に雨漏りの滴が落ちることもあったといいます5。孫
開幕は当初10月の予定でした。1936年4月にアラブの反乱が始まり、英軍が戒厳令を敷いて、演奏会活動は2か月以上止まりました5。◎ 8月には、パレスチナへの移民が全面停止されるという話が流れ、フーベルマンは「この2日間は悪夢だった」と書いています5。孫 最後は高等弁務官を説き伏せて、楽員の入国ビザを確保しました5。◎
名前の「パレスチナ」が指していたもの
ヒルシュベルクは序文で、この本では「パレスチナ」の語を英国委任統治期の領域を指す法的・地理的な意味に限って使うと断っています。原文は「The term 'Palestine' is strictly used in its territorial legal sense during the period of the British mandate」(「パレスチナ」という語は、英国委任統治期の領域としての法的な意味に厳密に限って用いる)です6。◎ 当時この地に住むユダヤ人もアラブ人も、行政上は同じ「パレスチナ」の住民でした。楽団の名前は民族の名ではなく、置かれた土地の名でした。△
その土地の主権者は英国でした。移民の入国証明書は英国の行政が4区分で審査し、1,000ポンド以上の資本を持つ人か、現地の雇用主の付いた専門職でないと、すんなりとは出ませんでした7。◎ ヒルシュベルクによると、国内のどの楽団も「雇用主」としての正式な資格を持っていなかったため、欲しい管楽器奏者を外から呼ぶのは難しかったといいます7。◎
名前の揺れもあります。トスカニーニの客演承諾を伝えた1936年2月23日の『ニューヨーク・タイムズ』の見出しと記事は、楽団を「Palestine Symphony Orchestra」と呼び、開幕を10月24日と報じています8。◎ ハギンの本の巻頭年譜も「1936 — Conducted the Palestine Symphony」と書いています9。◎ 楽団自身の名は「The Palestine Orchestra」で、独立後最初の第13シーズン(1948/49年)を前に「イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団」へ正式に改めました10。◎ グラーデンヴィッツだけは、1946年にいったん「Palestine Philharmonic Orchestra」と改称し、1948年の建国でイスラエル・フィルになったと書いています11。◎
フーベルマン自身が「パレスチナ」をどう見ていたかは、手紙と談話に残っています。1937年7月、メルボルンの新聞のインタビューで、彼はユダヤ人とアラブ人の対立について「There is no reason at all why Arabs and Jews should not live in harmony」(アラブ人とユダヤ人が調和して暮らせない理由はまったくない)と述べました12。◎ 同じ談話では、対立は英国を困らせようとする者の扇動によるものとし、英国はユダヤ人がいなければパレスチナを植民するために「発明」すべきだったとまで言って、大英帝国の一部としての「ユダヤ人国家」を語っています12。◎ 1939年1月の手紙では、英軍がパレスチナのユダヤ人住民を以前ほど「natives」(原住民)として見下さなくなったのは、楽団の功績が大きいと書きました13。◎ 現在の政治をめぐる評価は、この記事では扱いません。
「ユダヤ人ほどヨーロッパ的な者はない」── フーベルマンの転換
ブロニスワフ・フーベルマン(1882-1947)はポーランドのチェンストホヴァに生まれ、ベルリンでヨアヒムに学んだヴァイオリニストです14。◎ 1920年代には「パン・ヨーロッパ」運動、つまりヨーロッパ合衆国の構想に熱心で、論説や講演を重ねていました14。◎
1934年1月、3度目のパレスチナ演奏旅行の最中に、ウィーンの秘書エーリヒ・アリーナに宛てた手紙で、彼はこう書いています。「Meiner Ansicht nach gibt es nichts Europäischeres als die Juden」(私の考えでは、ユダヤ人ほどヨーロッパ的なものはない)15。◎ 続けて、ヨーロッパの外に民族の理想を追うことは、ユダヤ人の歴史的使命からの「Desertation」(逃亡)のように見えていたと言います15。◎ ただし同じ手紙の中で、シオニズムに対する自分の立場が「見直し」に向かいつつあることを認め、パレスチナで起きているのはヨーロッパからの離反ではなく「eine Erweiterung europäischer Kultur」(ヨーロッパ文化の拡張)なのかもしれない、とも書いています15。◎ 「ユダヤ人ほどヨーロッパ的な者はない」という有名な一句は、転換の前の信条としてではなく、転換が始まった手紙の中で、それまでの立場を振り返る形で書かれています。
後の1942年、セントルイスでの講演では、1929年に初めてパレスチナを訪れた自分を「more European than Jewish in his feelings and, if anything, rather anti-Zionistic」(感情はユダヤ的というよりヨーロッパ的で、どちらかと言えば反シオニズム的だったヴァイオリニスト)と描いています16。◎ ヒルシュベルクは、転換の背景に、ナチ・ドイツでの演奏を拒んだことと、ファシズムの台頭でパン・ヨーロッパ運動が致命傷を負ったことを挙げています14。◎
1935年10月、銀行家マックス・ヴァールブルクへの手紙では、「man muss als Jude die Konsequenzen aus den jetzigen Tatsachen ziehen. Ich habe es getan: Palästina.」(ユダヤ人として、今の事実から帰結を引き出すしかない。私はそうした。パレスチナだ)と書きました17。◎
楽団の目的について、フーベルマンは場面ごとに違う言い方をしています。1935年12月のテルアビブの記者向け講演では、第一の動機として、ドイツの「Arierparagraph」(アーリア条項)で特に打撃を受けた優れた音楽家に、ふさわしい職場を与えることを挙げました18。◎ 同じ講演で、ドイツのユダヤ人を襲った「unerhörte Unglück」(前代未聞の不幸)は、この国の交響楽団という観点から見れば「gerade der günstigste Umstand」(まさに最も好都合な事情)だとまで言い、責任はドイツの野蛮だけでなく、亡命者を受け入れない近隣諸国の政府にもあると続けています18。◎ ヒルシュベルクはこの発言を、フーベルマンが「皮肉まじりに」述べたものと紹介しています19。◎
1936年4月、財務担当のキッシュ大佐に宛てた英語の手紙では、さらに踏み込んでいます。「it is the outlook of the prestige of World Jewry and of its cultural defence against the ignominious lies of Hitlerism which counts most for me」(私にとって何より大事なのは、世界のユダヤ人の威信と、ヒトラー主義の恥ずべき嘘に対するその文化的防衛という展望だ)20。◎ 同じ手紙には、アメリカで集めた寄付1万6,500ドルのうち約1万ドルはシオニズムに反対か無関心な人々からのものだった、とも書かれています20。◎ 楽団は、シオニストの事業というより、ユダヤ人全体の名誉の問題として資金を集めていました。
フーベルマンは1934年4月の手紙で「Can you imagine a pro-Jewish and pro-Zionist propaganda more effective than a concert tour of the Palestine Orchestra」(パレスチナ管弦楽団の演奏旅行ほど効果的な親ユダヤ・親シオニズムの宣伝があるだろうか)と書いていました21。◎ ドイツの楽団でユダヤ人の楽員が大量に解雇されると、計画は次第に「救出作戦」の性格を強めた、とヒルシュベルクはまとめています19。◎
楽員は誰だったのか
予備の聴音(オーディション)はミヒャエル・トイベ、ハンス・ヴィルヘルム・シュタインベルク、イッサイ・ドブロウェンの3人の指揮者が引き受け、最終の聴音はフーベルマン自身がヨーロッパの3都市で行いました19。◎
計画と結果を並べると、出身の内訳が大きく動いています。1936年4月3日、ユダヤ機関執行部のベン=グリオンに宛てた手紙で、フーベルマンが見積もった国外からの楽員はドイツ30人、ポーランド12人に、オランダ・オーストリア・ハンガリーを加えた計53人でした22。◎(OCRではこの3国のうち1国の数字が欠けていますが、合計は53人と読めます。)同年9月25日の手紙では、54人と契約済みで、まだ11人足りないと報告しています23。◎
実際の創立時について、ヒルシュベルクはフルート奏者で楽団史を書いたウーリ・トイプリッツに拠って、こう書いています。「Seventy-three musicians started the Palestine Orchestra, fifty-three of whom arrived from Europe.」(パレスチナ管弦楽団は73人の楽員で始まり、うち53人がヨーロッパから来た)24。◎ 内訳はポーランド19人、ドイツ16人、オーストリア10人、ハンガリーとオランダが4人ずつで、残りは現地の音楽家から選ばれました24。◎ ヨーロッパから来た人数の合計は計画どおりの53人ですが、ドイツは30人の見込みが16人、ポーランドは12人の見込みが19人になっています。ドイツから来るはずだった枠がどう埋まったのかは、手元の本からは分かりません。
楽員たちは互いにドイツ語で話しました24。◎ トイプリッツは、この「ドイツ語の飛び地」が長い目で見ると楽団を国の文化生活から切り離した、と見ています24。孫 最初の3シーズンのうちに、優れた楽員18人が南北アメリカの職に移りました25。◎ シオニストの活動家たちは、貴重な入国証明書を「渡り鳥」に使ったとフーベルマンを責めました25。◎ それでも欠員は埋められ、45人が新たに加わりました25。◎ 1948年に楽団がイスラエル・フィルになったとき、創立メンバーのうち44人が残っていました25。◎ ヒルシュベルクは、パレスチナを一時の避難所としか考えなかった人も含めて、戦争が始まるまでにフーベルマンは「nearly one hundred musicians and their families」(100人近い音楽家とその家族)を絶滅から救っていた、と書いています25。◎
では「ユダヤ人の楽団」は方針だったのでしょうか。楽団の結成からまもなくヴァイオリンで加わり、のちにNBC響に移ったフェリックス・ガリミールは、ハギンの聞き取りで「the players had to be Jewish, and in Europe there just were no Jewish brass」(楽員はユダヤ人でなければならず、ヨーロッパにはユダヤ人の金管奏者がまずいなかった)と語っています26。◎ トランペットは「いなかった」も同然で、コントラバス奏者もごく少なかったといいます26。◎ これに対して、1934年、フーベルマンが演奏旅行の純益148ポンドを管楽器奏者の招聘資金に充てるときに付けた条件は、「同じ質ならユダヤ教徒のドイツ国民を優先し、質の高い志願者が足りなければ非ユダヤ人も認める」というものでした27。◎ 別の手紙では、民族の再建期にあるパレスチナでは、最初の楽団長が「ein ungetaufter Jude」(洗礼を受けていないユダヤ人)であることが重んじられる、と書いています28。◎ 文書で確かめられるのは「できればユダヤ人」という優先順位で、「ユダヤ人に限る」という明文は、手元の本には見当たりません。○ 結果として楽団はほぼユダヤ人だけになりましたが、それが規則によるものか、亡命者の救出という目的から自然にそうなったのかは、区別して考える必要があります。1969年の楽団史は、フーベルマンが1934年に構想したのは「a Jewish orchestra in the Jewish Homeland」(ユダヤ人の故郷のユダヤ人の楽団)だった、と書いています2。◎
トスカニーニの客演
フーベルマンは常任指揮者を置かず、第一級の客演指揮者を招く方針を取りました4。◎ ヒルシュベルクによると、この方針は1977年にズービン・メータが音楽監督に就くまで、ほぼ途切れずに続きました4。◎ 最大の一手がトスカニーニでした。トスカニーニはその直前、ヒトラーからのバイロイト出演の招待を拒んでおり、『ニューヨーク・タイムズ』は彼の承諾を、ナチに迫害された芸術家のために「戦う義務」と報じました29。◎ トスカニーニは1930年と1931年にバイロイトで振っており9、◎ ワーグナーを得意とした指揮者でした。△
トスカニーニの気性と要求の厳しさを恐れたフーベルマンは、友人のシュタインベルクに、2か月足らずで60回を超える練習を課して楽団を鍛えさせました29。◎ ガリミールの記憶では、トスカニーニの到着前のシュタインベルクとの練習は「about two weeks」(2週間ほど)、毎日でした26。◎ 期間の食い違いは大きく、どちらが正しいかは手元の資料では決められません。
ハイファの本番で、第1トランペットが第3楽章で休むべきところを第4楽章の最初の音を吹いてしまい、トスカニーニは激怒して袖に引っ込み、休憩は1時間半に及んだ、という話もガリミールの証言にあります30。◎ この事件は書簡集とヒルシュベルクの本には出てきません。○
報酬はどうだったのか。1938年5月、フーベルマンはブリュッセルの支援者に宛てて、トスカニーニは2度の訪問で「ohne Honorar einundzwanzig Konzerte」(無報酬で21回の演奏会)を指揮した、と書いています31。◎ 1942年の講演では、2シーズンに「twenty concerts in Palestine and Egypt」(パレスチナとエジプトで20回)振ったとし、謝礼の話を遠回しに持ち出したときだけトスカニーニは怒りかけ、「He simply refused even to touch the subject. And he is not a Jew」(話題に触れることさえ拒んだ。しかも彼はユダヤ人ではない)と述べています32。◎ ヒルシュベルクは、トスカニーニ、シュタインベルク、ドブロウェン、シェルヘンらがいずれも長く滞在し、無償で奉仕して、芸術上かつ政治上の関与として引き受けた、とまとめています33。◎ 1938年のトスカニーニの再訪は、ザルツブルクで振るのを拒んだ後のことで、反ナチの意思表示と受け取られました33。◎
シュトラウスとワーグナー ── 外されたのはいつか
ここからがこの記事の本題です。イスラエルでワーグナーが演奏されないことについては、「ヒトラーが好んだ作曲家だから、建国のときから演奏しないと決めた」という説明がよく聞かれます。△ 手元の記録で確かめると、二人の作曲家はまったく違う経路で曲目から消えています。
シュトラウス:1936年、創立者が手紙で外す
開幕の3か月前、1936年9月27日、フーベルマンは客演予定のドブロウェンに宛てて、提案された曲目のうちシュトラウスだけを断りました。
「Wir können keinen Platz gewähren einem Mann, der einerseits eine jüdische Schwiegertochter und einen jüdischen Textdichter hat, andererseits aber aus materiellen Gründen Präsident der nazistischen Reichsmusikkammer war bis zu dem Moment, wo er einen Fusstritt bekommen hat.」(一方でユダヤ人の嫁とユダヤ人の台本作者を持ちながら、他方で物質的な理由から、蹴り出されるその時までナチの帝国音楽院の総裁を務めた男に、我々は場所を与えられない)34。◎
ヒルシュベルクも同じ手紙を英訳で引いています35。◎ 理由として挙げられているのは、シュトラウスが作った音楽の性格ではなく、ナチ体制の公職に就いたという本人の行動です。決めたのは創立者本人で、時期は楽団が一音も鳴らす前です。シュトラウスが帝国音楽院総裁を務めたのは1933年から1935年まで、とされています。△
もっとも、フーベルマンが同じ年の4月の手紙で、楽団の編成を大きくした理由として「今の編成でもシュトラウスやストラヴィンスキーの作品はまだ演奏しにくい」と書いていることも付け加えておきます20。◎ 春の時点では、シュトラウスはまだ「いずれ弾くべき曲」の側に数えられていました。
フーベルマンの線引きはシュトラウスだけではありません。1936年12月の手紙では、パレスチナはトスカニーニやアドルフ・ブッシュのような人には頭を下げ、「Verräter und Nazianhänger (Kreisler, Kipnis, Cortot)」(裏切り者とナチ支持者、クライスラー、キプニス、コルトー)は締め出すべきだと書きました36。◎ 1938年6月には、キプニスやクライスラーについて「私に発言権があるうちは、パレスチナの敷居をまたがせない」と念を押しています31。◎ 対象は演奏家の振る舞いで、作曲家の民族ではありませんでした。
ワーグナー:1938年11月、定期会員の訴え
ワーグナーについて、フーベルマンの書簡集には何も書かれていません。英語・ドイツ語・フランス語の本文をOCRで検索しても、「Wagner」の語は一度も出てきません。◎(後半のヘブライ語版は検索できていません。)
ワーグナーが消えた経緯を書いているのはヒルシュベルクです。原文を引きます。
「The orchestra scheduled a performance of Wagner's Meistersinger Overture for the end of November 1938. The outbreak of violence against Jews in Germany known as the Kristallnacht on 9 November 1938 instigated an appeal by a group of subscribers to cancel the performance as a symbolic protest against anti-Semitism and the orchestra complied.」(楽団は1938年11月末にワーグナーの『マイスタージンガー』序曲の演奏を予定していた。1938年11月9日、水晶の夜として知られるドイツでのユダヤ人に対する暴力が起きると、定期会員の一団が、反ユダヤ主義への象徴的な抗議としてこの演奏の取りやめを訴え、楽団はそれに応じた)35。◎
ヒルシュベルクは続けて、トイプリッツの見方を紹介します。この演奏を取りやめさせたのは、ナチの活動の中心地ニュルンベルクとの直接の連想であって、ワーグナーの全面否定というよりそちらの力が大きかった、というものです37。孫 実際、ほぼ同じ頃に楽団はエジプトで『タンホイザー』のバッカナールを演奏していました37。◎ それでもヒルシュベルクは「Yet the cancellation inadvertently initiated a lasting boycott of public performances of Wagner's music.」(しかしこの取りやめは、意図せずして、ワーグナーの音楽の公開演奏に対する長いボイコットの始まりとなった)と書いています37。◎
当時の批評家の反応は割れました。ダヴィッド・ロゾリオはワーグナーの偉大さに敬意を払いつつ、取りやめを「in consideration of the mood of the public」(聴衆の気分への配慮として)正当化しました37。孫 メナシェ・ラヴィナは、この決定がワーグナーだけに当てはまり、ドイツ音楽全般には及ばないことを望むと書き、さらにこう続けました。「one finds it difficult to agree to the revenge taken against the magnificent overture for a crime committed by its composer」(作曲者の犯した罪のために、見事な序曲に復讐することには賛成しがたい)37。孫 注の日付から見ると、取りやめは遅くとも11月17日には新聞に出ていました37。◎
この時期、フーベルマンはパレスチナにいませんでした。1938年11月18日付の秘書の手紙はカイロのメナ・ハウスから出されていて、翌19日にアレクサンドリアで演奏し、数日後にパレスチナへ向かって、ようやく自分の楽団と初めて共演する予定だと伝えています38。◎ 同じ手紙には「Von allem Andern zu schreiben, ist sinnlos, da jedes Wort, auch das stärkste zu schwach ist.」(ほかのことを書いても意味がない。どんな言葉も、最も強い言葉でさえ弱すぎるから)という一文があります38。◎ 何を指すのか、手紙は名指ししていません。
それ以前のワーグナー
1938年より前、パレスチナのユダヤ人社会でワーグナーが避けられていた形跡は、ヒルシュベルクの本には見当たりません。1912年には、ピアニストで歌手のフローレンス・メンクマイアーの演奏会の予告が「ワーグナーの崇高な楽劇を上演する大歌劇場はまだ遠いが、この歌を聴けるのは得難い機会だ」と書き、プログラムには『ローエングリン』からの編曲が入っていました39。◎ 1920年代後半には、資金の尽きたゴリンキンのオペラ一座が、ピアノとハルモニウムの伴奏によるワーグナーのオペラ抜粋の夕べでシーズンを閉じ40、◎ 1926年に始まったマックス・ランペルの交響演奏会でも『タンホイザー』序曲が取り上げられています41。◎ 評論家が問題にしたのは演奏の出来でした41。◎ ロゾリオは、ゴリンキンが振った『ローエングリン』の抜粋について、ワーグナーの霊感の源は「我々には異質な」ドイツの古伝説にある、と書いています42。孫 異質だという感想はあっても、演奏をやめるべきだという議論にはなっていません。
グラーデンヴィッツは、ホロコーストで殺された作曲家たちを悼む章の冒頭で、イスラエルでは多くの人が、自分たちの体験と家族や友人の運命に取りつかれて、「could not bear listening to the music of the German composers celebrated in the land they had fled」(逃れてきた土地で称えられるドイツの作曲家の音楽を聴くことに耐えられなかった)と書いています43。◎ 当事者の側からの証言ですが、人名も年もなく、1938年11月の具体的な出来事には触れていません。
通説と記録を並べる
| よく聞く説明 | 手元の記録 | 確認 |
|---|---|---|
| 建国(1948年)のときから演奏しないと決めた | 始まりは建国の約10年前、1938年11月の1曲の取りやめ(ヒルシュベルク p.138-139) | ◎ |
| 楽団か国が正式に禁止を決めた | 定期会員の一団の訴えに楽団が応じた。正式な決議の記録は手元の本に無い | ◎/○ |
| ヒトラーが好んだから避けた | 当時の理由は水晶の夜への「象徴的抗議」とされ、ニュルンベルクとの連想が効いた(トイプリッツの見方) | ◎/孫 |
| 創立のときから独墺の「ナチの作曲家」を外した | 1936年に外されたのはシュトラウスで、理由は帝国音楽院総裁の職。ワーグナーは1938年まで予定に入っていた | ◎ |
| ワーグナーは一切鳴らなかった | 同じ頃にエジプトで『タンホイザー』バッカナールを演奏。1912年から1920年代にもパレスチナで演奏例あり | ◎ |
| ボイコットは全面的 | 1995年時点で公開の舞台では続くが、学術研究・レコード販売は自由で、1990年代には放送や映画でも時に流れた(ヒルシュベルク p.139 注) | ◎ |
手元の本で分からないこともはっきりさせておきます。楽団の中で誰が取りやめを決めたのか、定期会員の訴えがどういう形で出されたのか、なぜ1曲の取りやめが恒常的なボイコットに固まったのかは、4冊のどれにも書かれていません。ヒルシュベルクの注はハアレツ紙(1938年11月17日)、パレスチナ・ポスト紙(同18日)、ダヴァル紙(同21日)を挙げていますが37、◎ 新聞そのものは手元にありません。2001年にバレンボイムがエルサレムでアンコールにワーグナーを演奏して論争になったことはよく知られていますが、手元の資料の範囲外です。△
曲目の論争 ── 独墺偏重、「ユダヤ音楽」、地中海様式
ワーグナーの一件より前から、楽団の曲目は論争の種でした。ヒルシュベルクの集計(表8.1)では、1936年から1947年までに演奏された2,815曲のうち、マーラーを含む独墺のロマン派が1,150曲(40.9%)、古典派(ハイドンからベートーヴェン)が282曲(10.0%)でした44。◎ ヨーロッパで書かれたユダヤ人作曲家の作品は98曲(3.5%)、パレスチナで新しく書かれた作品は116曲(4.1%)です44。◎(この表はOCRで列が崩れているため、ここでは合計の列だけを使っています。)
批判は開幕の直後から出ました。作曲家サロモン・ロソフスキーは、楽団の首脳が「パレスチナをドイツ音楽の首都にしようとしている」と抗議しました45。孫 開幕から半年も経たない1937年6月2日には、テルアビブのオヘル・シェム講堂で、楽団を被告にした模擬裁判が開かれています45。◎ 検察側の証人ラヴィナは、トスカニーニが開幕をユダヤ人の作品でなくロッシーニで始めたことを責め、弁護側の音楽学者ハンス・シュタイニッツは、ベートーヴェンの作品にはユダヤ人作曲家の作品以上にユダヤ精神が満ちている、とまで述べました45。◎ 陪審は楽団を表立って批判せず、ユダヤ人の作品が少しずつ曲目に加わることを望むにとどめました46。◎
フーベルマンの答えは、1938年12月のパレスチナ・ポスト紙の談話に残っています。国で唯一の楽団として、まず近代音楽がどの土台の上に築かれたかを聴衆に示す義務がある、メンデルスゾーンのような偉大なユダヤ人作曲家はこれまで住んだ国の音楽語法で書いてきたのであって、本当に霊感を受けたユダヤ人作曲家が生まれるのはパレスチナにおいてだろう、という内容です47。◎
1939年4月、芸術監督ケステンベルクに宛てた手紙はもっと率直です。客演指揮者には、2つのプログラムにつき少なくとも1曲は存命のユダヤ人作曲家の作品を入れることを「絶対の条件」として求めよ、と指示しながら、同じ段落でこう書いています。「Da ich persönlich die Existenz jüdischer Musik in einem höhern sinfonischen Sinne negiere」(私個人は、高度な交響的な意味での「ユダヤ音楽」の存在を否定するので)48。◎ 彼にとって存在するのは「nebenbei Juden」(たまたまユダヤ人でもある)ヨーロッパ各国の作曲家で、だから選曲を「manchen palästinensischen Chauvinisten」(一部のパレスチナの排外主義者)が望むほど狭くする必要はない、というのです48。◎ ユダヤ人作曲家の枠は設けるが、「ユダヤ音楽」という範疇は認めない、という立場です。
地元の作曲家は納得しませんでした。1940年1月、チェロ奏者で作曲家のヨアヒム・シュトゥチェフスキーが、作曲家13人の署名した請願をフーベルマンに送りました46。◎ フーベルマンはケステンベルクに対応を任せ、ケステンベルクは戦時下を理由にしてかわしたため、本人の返事を待っていた作曲家たちは傷つき、この問題は長く楽団と地元作曲家の間のしこりになりました46。◎ ただしヒルシュベルクは、新作116曲という絶対数は若い楽団としては立派なもので、パレスチナで書かれた主な管弦楽曲はほぼすべて、完成から1、2年のうちに演奏されていた、とも書いています49。◎ グラーデンヴィッツの評価はもう少し厳しく、楽団は地元作曲家を育てる重要性に気づくのが遅く、その穴を英国委任統治政府のパレスチナ放送局が埋めた、としています50。◎
地元の作曲家たちが目指した「東方」の響きも、のちに論争になります。1940年代に、マックス・ブロートらが「東地中海楽派」という呼び名を使い始めました51。◎ グラーデンヴィッツは当事者として、パウル・ベン=ハイムをこの様式の最初の担い手とし、メリスマの旋律、複雑なリズム、イスラエルの地の空気を映す色彩を、その特徴に数えています51。◎ これに対しヒルシュベルクは、いわゆる地中海様式は一貫した様式ではなく、1930〜40年代の作品で繰り返し使われるうちに記号の意味を帯びたリズム・旋律・和声の型の「aggregate」(寄せ集め)にすぎなかった、と結論しています52。◎
記録が食い違うところ
4冊を突き合わせると、細部でいくつも食い違いがあります。どれが正しいかを手元の資料だけで決められるものは多くありません。
| 項目 | 記述A | 記述B | 備考 |
|---|---|---|---|
| 創立時の楽員数 | 73人(ヒルシュベルク p.130、トイプリッツに拠る) | 72人(書簡集巻末の楽団史 p.84) | どの時点で数えたかの違いの可能性 |
| 欧州からの内訳 | 計画:ドイツ30・ポーランド12ほか計53(1936年4月の手紙 p.26) | 結果:ポーランド19・ドイツ16・オーストリア10ほか計53(ヒルシュベルク p.130-131) | 合計は一致、国別は大きく違う |
| トスカニーニの公演数 | 無報酬で21回(1938年5月の手紙 p.59) | パレスチナとエジプトで20回(1942年の講演 p.74) | どちらもフーベルマン本人の言葉 |
| シュタインベルクの準備 | 2か月足らずで60回超の練習(ヒルシュベルク p.128) | 2週間ほど、毎日(ガリミール、ハギン p.192) | 証言は約30年後 |
| 会場の規模 | 2,500席(ヒルシュベルク p.127) | 聴衆3,000(楽団史 p.81)/「小さなホール」(ガリミール p.193) | |
| パレスチナ放送局の開局 | 1936年3月(ヒルシュベルク p.141) | 1936年4月(グラーデンヴィッツ p.327) | |
| 楽団の改称 | 1948/49年シーズンを前にイスラエル・フィルへ(ヒルシュベルク p.275、楽団史 p.83) | 1946年に Palestine Philharmonic、1948年にイスラエル・フィル(グラーデンヴィッツ p.327) | 1946年の名称は1冊のみ |
| 楽員の条件 | 「楽員はユダヤ人でなければならなかった」(ガリミール p.192) | 「質が同じならユダヤ人を優先、足りなければ非ユダヤ人も可」(1934年の条件 p.11) | 方針と結果の区別が要る |
| 「ユダヤ人ほどヨーロッパ的」の出典 | ヒルシュベルクの注は1934年1月22日の講演(書簡集 p.8) | 書簡集では1934年1月21日・29日付のアリーナ宛書簡(p.7)にある | 頁の数え方も含め要確認 |
まとめると、楽団は「ユダヤ人の楽団」として生まれ、その名は委任統治領の名でした。シュトラウスは創立者の判断で1936年に外され、ワーグナーは1938年11月、聴衆の訴えに楽団が応じた1曲の取りやめから消え始めました。その1曲がなぜ半世紀以上続く慣行になったのかは、今回の4冊では答えが出ません。次に当たるべきなのは、ヒルシュベルクが注で挙げた1938年11月の新聞3紙と、トイプリッツの楽団史です。
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ヒルシュベルク『Music in the Jewish Community of Palestine 1880-1948: A Social History』Clarendon Press 1995, p.129(画面 p0147)。 ↩↩
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I. Ibbeken, T. Avni 編『An Orchestra is Born』Yachdav 1969, 巻末「The Israel Philharmonic Orchestra in its Development」p.81(画面 p0085)。シュタインベルクが準備に来た頃には定期券の売れ行きが鈍かったことも同頁。 ↩↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.128(画面 p0146)。雨漏りはトイプリッツ『楽団史』p.28 からの引用。ビザの件は書簡集 p.38・p.40 の手紙に拠る。 ↩↩↩↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.vii(序文, 画面 p0011)。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.25(画面 p0029)。1936年2月23日付『ニューヨーク・タイムズ』の再録。 ↩
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ハギン『The Toscanini Musicians Knew』第2版 Horizon Press 1980, 巻頭年譜(画面 p0012)。 ↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.82-83(画面 p0086-0087)。ヒルシュベルク 前掲, p.275(画面 p0293)も1948/49年シーズンの前の改称とする。 ↩
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グラーデンヴィッツ『The Music of Israel』第2版 Amadeus Press 1996, p.327(画面 p0331)。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.54-55(画面 p0058-0059)。1937年7月13日、メルボルン『ザ・ヘラルド』紙のインタビュー。 ↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.65(画面 p0069)。1939年1月2日、アテネからルーテンベルク宛。同じ手紙でピール委員会報告に楽団と聴衆を扱った頁があると書く。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.7(画面 p0011)。1934年1月21日付テルアビブ発、29日に死海の岸で続きを書いたエーリヒ・アリーナ宛書簡。 ↩↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.73(画面 p0077)。1942年11月20日、セントルイスのシャアレ・エメト会堂での講演。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.20(画面 p0024)。1935年10月5日、ウィーン発マックス・ヴァールブルク宛。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.21(画面 p0025)。1935年12月、テルアビブの記者向け講演。ヒルシュベルクはこの講演を書簡集 p.22・p.25 として引く。 ↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.28(画面 p0032)。1936年4月24日、イル・ド・フランス号船上からキッシュ大佐宛の手紙の続き。 ↩↩↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.124(画面 p0142)。1934年4月30日のジーフ宛書簡からの引用。書簡集 p.17(画面 p0021)で原文を確認。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.26(画面 p0030)。1936年4月3日、ニューヨーク発ベン=グリオン宛。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.41(画面 p0045)。1936年9月25日、ブリオーニ発キッシュ大佐宛。 ↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.130-131(画面 p0148-0149)。トイプリッツ『楽団史』p.28-29 に拠る。 ↩↩↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.11(画面 p0015)。148ポンドの寄付に付けた条件。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.14(画面 p0018)。 ↩
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ハギン 前掲, p.193-194(画面 p0201-0202)。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.59-60(画面 p0063-0064)。21回は1938年5月15日、ハイファ発ナポリ行きの船上からブリュッセルのハイネマン宛。キプニスとクライスラーの件は1938年6月27日、チューリヒ発ハインリヒ・ジーモン宛。 ↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.74(画面 p0078)。注16と同じ1942年の講演。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.42(画面 p0046)。1936年9月27日、ブリオーニ発、リガのドブロウェン宛。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.46(画面 p0050)。1936年12月23日、テルアビブ発アリーナ宛。 ↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.139(画面 p0157)。注73(Palestine Post 1938年11月18日、Ha'Aretz 同17日)と注74(Davar 同21日)。ボイコットの範囲についての記述も注73。トイプリッツの見方はヒルシュベルク経由。 ↩↩↩↩↩↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.62-63(画面 p0066-0067)。1938年11月18日、カイロ発、オランダの友人宛(秘書が執筆)。 ↩↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.34(画面 p0052)。1912年の『ハオル』紙の予告。 ↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.77(画面 p0095)。 ↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.254(画面 p0272)。 ↩
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グラーデンヴィッツ 前掲, p.300(画面 p0304)。 ↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.135(画面 p0153)。ロソフスキーの言葉は Ha'Aretz 1937年6月1日からの引用。 ↩↩↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.63(画面 p0067)。Palestine Post 1938年12月16日(14日の記者会見)の再録。ヒルシュベルク p.136 も同じ箇所を引く。 ↩
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Ibbeken, Avni 編 前掲, p.66(画面 p0070)。1939年4月2日、ブリュッセル発ケステンベルク宛。 ↩↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.138(画面 p0156)。 ↩
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グラーデンヴィッツ 前掲, p.329-330(画面 p0333-0334)。 ↩
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ヒルシュベルク 前掲, p.272(画面 p0290)。 ↩



