シネ・イーラ ── 「怒りも贔屓もなく」(タキトゥス『年代記』1巻1節)

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「ウィーンの響き」は本当にあるのか(第2章)何が変わり、何が残ったのか

「世代を超えて均一な奏法がある」という説を、ヴィブラートとポルタメントの記録で確かめます。1922年の入団試験、マーラーが嫌った「絶え間ないポルタメント」、戦後の批評の割れ方。そして、楽団で鳴ってきた楽器の来歴をコラムで。

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか(この記事)
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

「ウィーン・フィルには、世代を超えて変わらない、均一な奏法がある」。

この章では、この強い説が資料に耐えるかを確かめます。奏法の歴史をすべて書き直すことはしません。手がかりにするのは、弦楽器の二つの弾き方です。一つは、伸ばした音を揺らすヴィブラート。もう一つは、音から音へ滑らせて移るポルタメントです。前者は音の「持続」、後者は音の「移り方」にかかわります。

先に、この章で否定できることと、できないことを分けておきます。

  • 否定できるかもしれないのは、「具体的な奏法は時代を超えて不変だった」という説と、「同じ時代の楽員は皆、同じように弾いた」という説です。
  • 否定できないのは、「奏法は変わっても、その背後に共有された音楽観があった」という説です。これは、第1章で見たコンサートマスターたちの語り方そのものでもあり、第4章で改めて扱います。

また、資料には性質の違うものが混ざっています。実際にどう弾いていたかの記録(実践)、どう弾くべきかという考え(規範)、聴いた人の評価(評価)です。そして、記述の対象が、奏者個人なのか、楽団の一部なのか、楽団全体なのかも違います。以下では、この違いをできるだけ書き添えます。

1 ヴィブラート

19世紀:細いヴィブラートと、ポルタート

ヴァイオリン教育者カール・フレッシュは、1880年代にウィーン音楽院で学びました。のちに回想録で、当時のウィーンの弦の癖を、レガートの代わりに使われた「ポルタート」(一音ずつ区切るような弓の使い方)と、「広すぎるヴィブラート」と書いています(フレッシュ『回想録』p.54。対象:ウィーンの弦楽教育全体。性質:評価)。

一方で、個々の奏者のヴィブラートは細かったとも書いています。師ヤーコプ・グリューン(宮廷歌劇場のコンサートマスター)のヴィブラートは「ごく細い」(同 p.20。対象:個人)。1881年から半世紀以上コンサートマスターを務めたアルノルト・ロゼーのヴィブラートは「気品はあるが、やや細い」(同 p.50。対象:個人)。

1920年代:「当然」になったヴィブラートと、それを控えさせる楽団

ウィーン生まれのフリッツ・クライスラーは、絶えずヴィブラートを用いる奏法を広く知らしめた、代表的な奏者でした。そのクライスラーは若いころ、宮廷歌劇場(ウィーン・フィル)の入団試験を受けて落ちています。フレッシュによると、リズム感が足りないと判断されての不採用でした(フレッシュ p.119。ビアンコリの伝記では1896〜98年ごろ)。彼の奏法と不採用とのあいだの因果は、資料からは分かりません。

1922年、のちに楽団長となるオットー・シュトラッサーが入団試験を受けたときのことを、本人がこう書いています。

ロゼーは、しっかりと伝統に結びついていたので、当時、長いこと当然と見なされていたヴィブラートをあまり好まず、ごく稀にしか使わなかった。……私はこころゆくばかりヴィブラートを用いたのだが、ロゼーと同意見だったシャルクは途中で私をさえぎり、「そんなにヴァイオリンを啼かせるものではない」と言った。 (シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.102。対象:入団試験の場。性質:実践と規範)

ここから分かるのは、1922年の時点で、ヴィブラートは世の中ではもう「当然」だったこと、そして楽団の上に立つ人たち(コンサートマスターのロゼーと、歌劇場長のシャルク)は、それを控えさせる側にいたことです。新しく入る世代と、楽団の規範の間に、すでにずれがありました。

シュトラッサーは別の箇所で、こうも書いています。

クライスラーが、ちょっと真似のできないような甘い柔らかなトーンで奏でるあのやり方をウィーン式と名づけるとしたら、ローゼのヴァイオリン奏法は、ほとんどウィーン式とは言いがたかった。 (同 p.21)

同じ頁で、シュトラッサーはロゼーを「ウィーン楽派の最も著名な代表者の一人」とも呼んでいます。「ウィーン式」という言葉は、師弟の系譜を指す使い方と、音の甘さを指す使い方が、並んでいたことになります。

1938年以降と戦後:一つの物差しでは測れない評価

ロゼーは1938年、ナチスによる併合で楽団を追われました。そのあと、ロゼーの控えめなヴィブラートを受け継いだ、と語る資料は、今回は見つかりませんでした(見つからなかったことは、受け継がれなかったことの証明ではありません)。

戦後の評価は、一つの方向にはまとまりません。アメリカの音楽誌『High Fidelity』の数年のあいだの評だけでも、こうなります。

  • 1966年:チェコ・フィルと並べて、ウィーン・フィルの弦には、ふだん聴くより「ヴィブラートを控えめに使う」ことから来る「中欧らしい弦の響き」がある。
  • 1969年:マゼール指揮のシベリウスで、「生気がなく、ヴィブラートだらけの弦」と批判。
  • 1970年:バルビローリ指揮で、上の弦が「輝く音で、ふさわしいところでは、かなり広いヴィブラートで」弾くと評価。
  • 1977年:アバド指揮のチャイコフスキーで、ヴァイオリンが「過剰なヴィブラートなしに、甘く抒情的に」響くと評価。

同じ楽団について、数年のうちに「控えめ」「だらけ」「広い」「過剰でない」と、評価は割れています。指揮者も曲も録音も評者も違うため、これだけで楽団の奏法そのものが変わったとは言えません。評者の耳が違った可能性も、演奏ごとに弾き方が違った可能性もあります。ただし、戦後の批評からは、ウィーン・フィルのヴィブラートが、評者のあいだで一貫した特徴として記述されていなかったことが分かります。1922年の入団試験の証言と合わせると、少なくとも「ウィーン・フィルの弦は、いつの時代も同じヴィブラートで弾いていた」という像は、資料から当然のこととしては導けません。そう言うのであれば、言う側に根拠が要ります。

楽団の内側からも、振り返る声があります。元コンサートマスターのヴェルナー・ヒンクは、戦争の前後には、どの曲にも同じようにヴィブラートをかけるやり方が行われ、それは「やりすぎ」だったと振り返っています。同時に、古楽の流儀のヴィブラートを全く使わない弾き方にも反対しています(ヒンク語り下ろし 第4章 p.58)。

2 ポルタメント

1897年:マーラーが嫌った「絶え間ないポルタメント」

1897年、宮廷歌劇場の監督に着任したばかりのグスタフ・マーラーは、最初は楽団に満足していましたが、すぐに不満を持つようになります。伝記作家ラ・グランジュはこう書いています。

ウィーンの弦楽器奏者たちが好んだ「絶え間ないポルタメントと、弓の途中で音を弱めるやり方」が、彼には耐えがたかった。 (ラ・グランジュ『マーラー』第1巻。対象:楽団の弦。性質:実践と、それへの評価)

ただし、マーラーはポルタメントそのものを嫌ったわけではありません。自分の作品には、民謡やヨーデルから取った「マーラーらしいポルタメントの四度の上拍」を書き込んでいます(同書の歌曲の分析)。嫌ったのは、楽員が癖として「いつも」かける滑りでした。

逆に、リヒャルト・シュトラウスは、《ばらの騎士》の総譜に「甘いウィーン風のグリッサンド」を求める指示を書き込んでいます(『High Fidelity』1985年1月号の紹介による)。

戦後:よそが捨てたものを、持ち続ける楽団

20世紀半ばの批評には、西側のオーケストラではポルタメントが減っている、という認識が見られます。1960年のイギリスの音楽誌『Gramophone』は、チェコ・フィルの弦が「今日の西側の楽団より多くのポルタメントを使う」と書いており、評者が西側では減っていると見ていたことが分かります。

その中で、ウィーン・フィルのポルタメントは褒め言葉として書かれます。

  • 1961年『Gramophone』:サージェント指揮のロッシーニ序曲集で、「ウィーンのヴァイオリンに、いかにも本物らしいポルタメントでスラーを弾かせた」。
  • 1964年:デッカのプロデューサー、カルショーは、ショルティ指揮の《神々の黄昏》の録音で、ヴァイオリンの句まわしのかすかなルバートとポルタメントを、計算も教授もできない「伝統の産物」と感じた(カルショー『ニーベルングの指環』)。
  • 1976年『High Fidelity』:ベームが1936年にドレスデンで録音したブルックナー第4番の「気ままな弦のポルタメント」を、「今日は、ベームも含めて、どの指揮者も許さないだろう」と書く。対象はドレスデンの楽団ですが、ポルタメントへの見方が時代で変わったことを示しています。
  • 1982年『High Fidelity』:ウィーン・フィルは「今も直接で自然な様式の感覚」を保っている、ベルリン・フィルの「ふらふらした滑り」と比べてみよ。
  • 1985年『High Fidelity』:マゼール指揮のマーラー第4番で、弦に「惜しみないポルタメント」を許しており、「メンゲルベルク以来、あまり聞かない」。同じ号で、評者はウィーン・フィルの楽員が自分たちの演奏を誇らしげに「とても美しく、だらしない(so schön schlampig)」と呼ぶのを聞いた、と書いています。

ここで面白いのは、ポルタメントという、かつてマーラーが「癖」として嫌った弾き方が、ほかの楽団では減ったと見られていた時代に、ウィーン・フィルの「本物らしさ」「自然さ」として評価されるようになったことです。ある指揮者にとっては直すべき習慣、後の批評家にとっては残すべき伝統の特徴、そして楽員自身にとっては愛着を込めた自己紹介の言葉でした。

マーラーが聴いた演奏と、戦後の批評家が聴いた演奏は、同じ条件で比べられるものではありません。弾き方の量がどうだったかは、文章の資料からは測れません。けれども少なくとも、ポルタメントという弾き方に与えられる評価は、時代とともに変わっています。

抜けている時期

1900年から1945年まで、そして1990年以降について、ウィーン・フィルの弦のポルタメントを具体的に書いた資料は、今回は見つかりませんでした。ポルタメントの量の変化を、一本の線で描くことはできません。

3 コラム:ウィーン・フィルで鳴っている楽器

序で、フルトヴェングラーは「音楽をつくるのは楽器ではない」と結論しました。では、ウィーン・フィルではどんな楽器が鳴ってきたのでしょうか。

(1)楽器の構造と音響 弦楽器と管楽器は分けて考える必要があります。弦楽器では、楽器そのものより弾き方の比重が大きい、という見方が、フルトヴェングラーにも、1990年に楽団が開いたシンポジウムにもあります。管楽器は、ウィーン式のオーボエやホルンのように、楽器の作りそのものが他の楽団と違います。

(2)楽器は誰から誰へ渡ったか ヘルスベルクによると、20世紀の初めまで、楽団は地元の職人ガブリエル・レンベックの工房の楽器を使っていました(ヘルスベルク 第11章)。演奏会のちらしに「弦楽器:レンベック」と刷られ(1874年)、1920年代には「レンベックの後継者カール・ハウデク」と刷られています。フレッシュによると、1880年代のウィーンでは、名の知られていないイタリアの良い楽器が300グルデンで買え、楽器の商いは「老ガブリエル」、つまりレンベックが握っていました(フレッシュ p.79)。

楽員の楽器は、楽員から楽員へ渡ることもありました。ヒンクの今の楽器はニコラ・ガリアーノ(1734年)で、元は戦後すぐの臨時楽団長も務めたコンサートマスター、フリッツ・セドラークのものでした。1970年代の終わりに、セドラークの娘から買い取っています(ヒンク語り下ろし 第2章 p.55)。

「ウィーン・フィルの楽員は皆、ウィーン派の職人ガイゼンホーフの楽器を使っている」という話も伝わっています(神田侑晃『ヴァイオリンの見方・選び方 応用編』p.139。ヴァイオリニスト、ロドニー・フレンドの話として)。一方、ヒンクは、「ウィーン・フィルの弦は皆、楽友協会の一角にある工房の楽器を使っている、とよく言われるが、皆がそうではない」と語っています(ヒンク 第2章 p.51)。

(3)楽器の来歴が語る歴史 ヒンクは入団したばかりのころ、ウィーン中心街の職人ルートヴィヒ・トレストラーから、月払いでヴァイオリンを借りていました。ヒンクによると、トレストラーの手元のコレクションは、オーストリアがナチス・ドイツに併合されたとき、ウィーンから逃げ出す、あるいは収容所に送られるユダヤ人の演奏家たちが、街を去る前に託していった楽器でした(ヒンク 第2章 p.54)。個々の楽器の元の持ち主や経緯は分かりません。この話は第6章で改めて取り上げます。

(4)名器はどう伝統の象徴になったか 1940年、ベルリン・フィルはナチスの宣伝省に宛てた書簡で、「ドレスデン国立歌劇場はストラディヴァリを多数所有している。ウィーン・フィルは、指揮者、作曲家、独奏者から受け取った手紙や写真や本を集めた大きな資料室を持っている」と書いています(アスター『The Reich's Orchestra』の原注による)。このころのウィーン・フィルの宝は、名器ではなく資料室の方でした。

いまウィーン・フィルのコンサートマスターが弾くストラディヴァリは、オーストリア国立銀行の所蔵品です。このコレクションは1989年、楽団の名前を冠した金貨「ウィーン・フィルハーモニー」とともに始まりました。国立銀行の役員によると、楽団は金貨に名前を使わせる見返りとして、国立銀行が楽団の弦楽器3挺を支援することを提案したといいます(カンプマン『ウィーン・フィルハーモニー ある地金型金貨の歴史』の国立銀行の挨拶文。第5章で詳しく扱います)。ヒンクによると、潤っていた銀行が収益を文化に回したもので、ストラディヴァリはヘッツェル、ヒンク、ダナイローヴァと、代々のコンサートマスターに受け継がれています(ヒンク 第2章 p.51〜52)。

管楽器では、もっと劇的なことが起きています。ウィーン式の管楽器は、作り手が途絶えかけていました。1973年、ウィーン・フィルの4度目の来日をきっかけに、日本のヤマハが楽団の依頼で「ウィンナモデル」の開発を始めます。首席トランペット奏者が秘蔵の楽器のベルを切り取って託したこと、楽団の中に「日本人が作った楽器を吹くのは恥だ」という反発があったことが伝えられています(ヤマハミュージックエンタテインメント『こうして管楽器はつくられる【開発編】』2020年、Web音遊人2020年4月の記事による)。ヒンク自身、「ウィーンの楽器を使っているから独自の音が出る、というのは必ずしも正確ではない」と語っています(ヒンク 第2章 p.50)。

伝統の音を守る楽器が、外の国の技術で作り直されていた。そして、いまコンサートマスターが弾く名器は、1989年に、楽団の名前を刻んだ金貨とともに集められ始めたものだった。どちらも、名器や楽器の構造が「ウィーンの音」を生んだ、あるいは生まなかった、という証明にはなりません。ただ、楽器の起源が純粋であることと、伝統が続くことは、同じではないことを教えてくれます。

4 人と教育

ウィーンのヴァイオリン楽派は、一本の線ではない

第1章で見たように、シュトラッサーは、楽員のヴァイオリン奏者の大半が、ヨーゼフ・ベームやヘルメスベルガーが築いた「ウィーン・ヴァイオリン楽派」の出身だと書いています。その系譜を、楽団の側が図にしたものがあります。1942年、創立百年の年に楽団長イェルガーが書いた記念誌(第1章)の巻末にある、「ウィーンのヴァイオリン楽派」の系統図です。

図の根にいるのは、1819年から1848年まで音楽院の教授を務めたヨーゼフ・ベームです。その弟子として、ゲオルク・ヘルメスベルガー、ヤーコプ・グリューン、ヤーコプ・ドント、そしてヨーゼフ・ヨアヒムらが並びます。その下には、ロゼー、シャルク、フレッシュ、シュトヴェルトカらの名前が続き、ウィーンの流れを作っていきます。一方、ヨアヒムについては「ベルリン楽派を創った」と書かれ、その弟子として、アウアー、フーバイ、そしてカール・プリルらの名前が並んでいます(イェルガー『ウィーン・フィルハーモニカー 遺産と使命』1942年、巻末の系統図)。同じ根から、ウィーンの流れとベルリンの流れが分かれたことを、楽団の側も認めていたことになります。

二つの流れの違いは、19世紀にも意識されていました。批評家ハンスリックは1861年、ヨアヒムのベートーヴェンの協奏曲を高く評価しながら、「多くの箇所で、ヘルメスベルガーのみずみずしい自然さの方が、ヨアヒムの曲げない、ローマ人のような厳しさよりも、まっすぐ胸に届いただろう」と書いています(フレッシュ『回想録』p.22の注に引用)。

そして、このベルリンの側から、楽団に人が戻ってきます。1897年、ウィーン・フィルのコンサートマスターに迎えられたプリルは、ベルリンでヨアヒムの側の流れを学んだ人でした。楽団の顔であるコンサートマスターの席が、楽員全体より早くから外の人に開かれていたことは、このあと見ます。その最初の一人は、まったくの外ではなく、同じ根から分かれた、もう一方の流れの人だったことになります(数え方は「仮説と検証」の仮説13・16)。

楽員はどこで学んだか

最後に、楽員がどこで学び、誰に習ったかを見ます。ヘルスベルクの公式史(1992年)の巻末には、その時点の現役と、存命の退職者のほぼ全員の略歴が載っています。教師の欄には、楽員である教師に印が付いています。ここから入団の年代ごとに数えると、おおよそ次のようになります(1992年時点の名簿からの暫定の集計です。古い年代ほど人数が少なく、名簿の一部が読み取れなかった人もいます)。

入団の年代 人数 ウィーンで学んだ人 楽員に師事した人 ウィーン生まれ
1950年代 17人 約9割 約8割 約5割
1960年代 39人 約9割 約9割 約6割
1970年代 26人 約9割 約9割 約3割
1980年代 14人 約7割 約6割 約4割

ウィーンで学び、楽員に習う、という人の流れは、1970年代まではほとんど変わっていません。生まれの方が先に多様になっています。

団員の国籍は、どう変わってきたか

ただし、「ウィーン生まれ」が減ったことは、外国の人が増えたことと同じではありません。歴史家フリードマン・ペステルによると、1974年の時点で、楽員の82%は、オーストリアに生まれたか、オーストリア人として生まれた人でした。一方、楽員を育てるウィーンの音楽大学では、1950年代から1980年代にかけて、外国人の学生の割合が2割から4割近くに増え、1970年代の終わりには、学生の8%が日本から来ていました(ペステル「Austrian World Practices」2025年、p.345)。教える場所は国際化していたのに、楽団に入る人は、なかなか変わらなかったことになります。

変わり始めるのは、1990年代の後半からです。楽団は1997年に女性の入団を認め、その後、国籍、性別、そして少しだけ人種の面でも、多様になっていきました。ペステルは、冷戦の終わりとオーストリアのEU加盟、中欧・東南欧への目の向け方が、採用の幅を広げたと見ています。2018年には、楽団が自前のアカデミーを作り、若い奏者や将来の楽員候補を育て始めました(同 p.346)。

コンサートマスターの顔ぶれにも、その変化が表れています。ブルガリア出身のアルベナ・ダナイローヴァが2008年に国立歌劇場のコンサートマスターとなり(ウィーン・フィルの会員になったのは2011年。楽団初の女性コンサートマスター)、2019年には、モスクワ生まれでパリ育ちの26歳、フェドール・ルーディンが就任しました。このとき、4人のコンサートマスターは、ホーネック、シュトイデ、ダナイローヴァ、ルーディンでした(Slipped Disc 2019年2月8日)。

ただし、コンサートマスターの席は、楽員全体より早くから、外の人が入る門でした。1830年から今までの歴代のコンサートマスター30人を数えると、1900年から1999年までは、新しく就いた人のほぼ3人に1人が、ウィーンの外で学んだ人でした。学んだ場所は、ベルリン、ドレスデン、ルツェルンといったドイツ語圏の町か、ブダペスト、ソフィアといった中東欧の町です。世界中から来るようになったのは2008年以降で、それから就いた4人は全員がウィーンの外で学んだ人でした(「仮説と検証」の仮説13)。

今の楽団についても、公式サイトの楽員の紹介(2026年10月に取得、現役141人)から数えてみました。楽員は、まず国立歌劇場の管弦楽団に入り、そのあとでウィーン・フィルの会員になります。歌劇場に入った年の年代ごとに、今も在籍している人を数えると、次のようになります。

歌劇場に入った年代 人数 オーストリア生まれ ウィーン生まれ
1990年代 29人 69% 31%
2000年代 52人 60% 19%
2010年代 31人 45% 13%
2020年代 16人 62% 19%

現役141人の全体では、ウィーン生まれが33人(23%)、オーストリア生まれが84人(60%)、外国生まれが57人です。外国生まれの人の生まれた国は、ドイツ(11人)、ポーランド、ハンガリー、ロシア(各4人)をはじめ、二十あまりの国にわたり、韓国生まれの人もいます。1974年に「82%がオーストリア生まれ」だった楽団は、半世紀で、楽員の4割が外国生まれの楽団になりました。

この変化は、一斉に起きたわけではありません。歌劇場に入った時期で分けると、冷戦が終わったあとに中東欧の生まれの人が現れ、中東欧の国々がEUに加わった2004年以降には、新しく入った人の29%を占めるまでになりました。チェコ、スロバキア、ハンガリー、ポーランドなど、多くは旧ハプスブルク帝国の土地か、その隣です。イタリアやフランスなどの西欧と、ヨーロッパの外の生まれの人がまとまって入ってくるのは、2014年以降でした。最初は旧帝国の土地との再びのつながりで、世界に開いたのはその後です。

東アジアは、さらに遅れました。1970年代の終わりには、ウィーンの音楽大学の学生の8%が日本人でしたが、2026年の現役の楽員で東アジア生まれの人は、ソウル生まれのヴァイオリン奏者1人だけです(ウィーン・フィルの会員になったのは2025年)。学ぶ人が増えてから、楽団の門がわずかに開くまで、およそ半世紀かかったことになります(「仮説と検証」の仮説14・15)。

では、外国から来た人たちは、ウィーンで学んでいるのでしょうか。外国生まれの57人のうち、経歴から学んだ場所が分かった40人を見ると、ウィーンで学んだことのある人が23人、ウィーン以外のオーストリア(グラーツなど)で学んだ人が2人、外国だけで学んだ人が15人でした。師事した先生が分かった38人のうち、ウィーン・フィルの楽員に習ったことのある人は10人です(経歴に書かれた範囲での集計で、分からない人は分母から除いています)。

ただし、ウィーンで学んだ23人のうち22人は、まず自分の国や外国の学校で学び、そのあとでウィーンに来た人です。19人はウィーンの音楽大学で学び、3人は、ジュリアード音楽院などで学んだあと、2018年に楽団が作ったアカデミーを経て入っています。ウィーンで一から育った人というより、外で育った奏者が、仕上げの段階でウィーンの流儀を身につける、という形が多いことになります。

オーストリア生まれの84人についても、同じように外の経歴を拾いました(経歴が分かったのは49人)。ウィーンで学んだ人は45人、楽員に習ったことが分かる人は32人でした。師匠として何度も名前が出てくるのは、ヴァイオリンのアルフレート・シュタール、クラリネットのヨハン・ヒンドラーなどです。オーストリア生まれの楽員の中では、ウィーンで学び、楽員に習う、という筋が今も太く残り、外国生まれの楽員は、多くがその筋の外で育って、仕上げにウィーンへ来ている。二つの筋が並んでいる、というのが今の姿です(「仮説と検証」の仮説16)。

1992年の名簿の数え方(入団の年代ごと、ウィーンで学んだか、楽員に習ったか)と、今の名簿の数え方は、同じではありません。そのため、二つの表をそのまま一本の線にはつなげません。それでも、方向ははっきりしています。生まれは大きく多様になりました。外から来た人の多くは、仕上げの段階でウィーンで学んでいますが、楽員に直接習った人は一部にとどまります。「ウィーンで生まれ、ウィーンで学び、楽員に習う」という1980年代までの人の系譜は、「外で育ち、ウィーンで仕上げる」という形へと、重心を移しつつあると言えそうです。

門が開くまでに、何があったのか。1972年の日本人奏者の件と、女性の入団をめぐる経緯は、第6章で見ます。

一方、楽団の水準については、公式史自身が、1960年代は最後の大量採用(1920年代半ば)の世代が高齢になり、かつての高さになかったと書いています。同じころ、『Gramophone』は1957年に「ウィーン・フィルの弦の絹のような完璧さは、近ごろ以前ほど聞かれない」、1959年に「ウィーン・フィルの弦は昔ほどではない」と書いています。

5 この章でわかったこと

教育や人の系譜には、一定の連続性が見られます。一方、ヴィブラートとポルタメントについては、求められる奏法も、実際の弾き方についての証言も、聴き手の評価も、一様ではありませんでした。とくにポルタメントは、ある時代には直すべき癖とされ、別の時代には「本物らしさ」として褒められています。

今回の資料から、奏法がいつ、どの程度変わったかを一本の線で描くことはできません。しかし、具体的な奏法が世代を超えて一様に保たれてきた、という強い説もまた、資料からは確かめられません。

人の系譜が続いたことと、奏法が変わらなかったことは、同じではありません。

では、系譜は何を伝え、何を変えたのか。今回の資料だけでは、その対応までは特定できません。ただ、少なくとも、奏法に与えられる意味は時代とともに変わっていました。マーラーが「癖」として嫌ったポルタメントが、後世には「本物らしさ」として褒められたように。

伝統として受け継がれてきたものは、音そのものだったのか。それとも、音に与える意味だったのか。この問いは、次の章以降に持ち越します。

参考文献

このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。

  • クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
  • オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル 前楽団長が語る半世紀の歴史』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年(原著 Und dafür wird man noch bezahlt, 1974年) リンク
  • ヴィルヘルム・イェルガー『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』Wiener Verlagsgesellschaft、1942年 リンク
  • ジョン・カルショー『ニーベルングの指環 録音プロデューサーの手記』黒田恭一訳、音楽之友社、1969年 リンク
  • カール・フレッシュ『The Memoirs of Carl Flesch』(英訳)Bois de Boulogne、1973年版 リンク
  • Friedemann Pestel, "Austrian World Practices: The Vienna Philharmonic and the Global History of Austrian Culture in the Twentieth Century", Central European History 58 (2025), pp.332–354 リンク
  • ウィーン・フィル公式サイトの楽員紹介(2026年10月取得) リンク
  • ウェルナー・ヒンク語り、小宮正安構成・訳『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』アルテスパブリッシング、2017年 リンク
  • ウルズラ・カンプマン『ウィーン・フィルハーモニー ある地金型金貨の歴史』(国立銀行・造幣局・楽団の挨拶文を含む)
  • アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『Mahler』第1巻、Gollancz、1974年(英語版) リンク
  • ミーシャ・アスター『The Reich's Orchestra: The Berlin Philharmonic 1933–1945』2010年
  • 『High Fidelity』誌(アメリカ、1951〜1989年)World Radio History の公開アーカイブ リンク
  • 『The Gramophone』誌(イギリス、1923年〜)Internet Archive の公開分 リンク
  • ノーマン・レブレヒト「Slipped Disc」(ウェブ、2007年〜) リンク

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか(この記事)
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。