「ウィーンの響き」は本当にあるのか(第1章)何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
1942年の記念誌、指揮者、プロデューサー、作家、そして近年のコンサートマスター4人の言葉を並べると、「ウィーンの音」は一つの主張ではありませんでした。音のまとまり、人と伝承、楽器、演奏の場、美しく弾くことへの価値判断。語り方の違いを整理します。
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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか
「ウィーン・フィルには独特の音がある」。この言い方は、百年以上にわたって、楽員、指揮者、批評家、レコード会社の人々によって繰り返されてきました。
けれども、よく読むと、人によって「ウィーンの音」の中身が違います。ある人は音のまとまりを言い、ある人は生まれ育ちを言い、ある人は楽器を言います。まずは、この言い方を分解してみます。
1 六つの言い分
①まとまっている(均質性)
ここにこそウィーンの楽団の秘密がある。均質性、まとまった精神の構え、特別さ、定義できないもの――つまり様式である。
1942年、楽団創立百年の記念誌で、楽団長ヴィルヘルム・イェルガーはこう書きました(イェルガー『ウィーン・フィルハーモニカー 遺産と使命』1942年、p.11)。
同じ年の記念演説で、フルトヴェングラーは、楽員の出身の「均質さ」こそが、この楽団に「ヨーロッパにもアメリカにも出せない、豊かさと丸みと一貫性」を与えている、と述べています(トゥリュンピ『The Political Orchestra』p.484)。
時代は下って1960年代、デッカのプロデューサーとしてウィーン・フィルと《ニーベルングの指環》全曲を録音したジョン・カルショーも、こう書いています。
技術の面でウィーン・フィルにまさるオーケストラの名を挙げることはできる。だが、百人もの人間が、ひとつの楽器になるような感覚と本能において、世界中のどのオーケストラもウィーン・フィルと比肩することはできない。 (カルショー『ニーベルングの指環』p.76〜77)
②人と伝承(土壌・血・教育)
イェルガーは同じ記念誌で、柔らかな響き、官能的な音程、自然な歌い回しは「土壌の産物」だと書きました。ただし、その土壌を「帝国の端で、多くの民族がまじり合う土地」とも呼んでいます(トゥリュンピ p.499)。
指揮者カール・ベームは、ある曲について、ウィーン・フィルには「いわば、もう血の中にある」と語っています(ベーム『回想のロンド』p.72)。ここでの「血」は比喩です。以下では、実際の出身、教育、師弟の伝承と分けて扱います。
その「血」を、楽団の内側の人は、もう少し具体的な言葉で語っています。元コンサートマスターのヴェルナー・ヒンクは、ウィーンの音楽家が弾くモーツァルトやハイドンやシューベルトが「それらしく」聞こえるのは、オーストリアに伝わる踊りを、頭だけでなく身体でも分かっているからだろう、と語っています。そして、その感覚は生まれだけでは決まらない、という例を挙げます。同じオーストリアの指揮者でも、ベームは晩年、モーツァルトの交響曲で、ごくたまに退屈な演奏に陥ることがあった。年齢とともに、モーツァルトに欠かせない踊りの感覚が薄れていたのだろう。逆に、ずんぐりした体つきで、およそ踊りが得意そうには見えなかったヨーゼフ・クリップスは、踊りの感覚を解釈に生かす点で群を抜いており、彼の下でモーツァルトを弾いて退屈だったことは一度もない、というのです(ヒンク語り下ろし 第1章 p.69)。ヒンクの言う「それらしさ」は、血筋ではなく、身体で覚えた感覚の話です。
楽員オットー・シュトラッサーは、ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者の大半が、ヨーゼフ・ベームやヨーゼフ・ヘルメスベルガーが築いた「ウィーン・ヴァイオリン楽派」の出身であり、温かく表現豊かな音色や、自然な楽節の区切り方は、すべてこの楽派に基づく、と書いています(シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.129)。
③楽器
弦楽器について、シュトラッサーは、楽器より人の方を重く見ています。ヴァイオリンだけでなく、チェロやコントラバスにも、師から弟子へ続く同じような楽派ができていた、と書いたうえで、序で見たフルトヴェングラーの実験を引きます。ウィーン・フィルの楽器をよその楽団に弾かせても、「ウィーン・フィルの音色は、その楽団からは出てこなかった」というのです(同 p.129)。弦楽器と楽器の来歴については、第2章のコラムで詳しく見ます。
一方、シュトラッサーは同じ箇所で、管楽器は事情が違うと書いています。ウィーン式のオーボエは、よその楽団が使うフランス式とは作りが違い、奏者は「けっしてヴィブラートをかけない」。ホルンもウィーン独自の形をしています(同 p.129)。
作家ハンス・ヴァイゲルは、ウィーンのホルンは「マウスピースが大きく、形が違い、管の寸法も違う」と書きました(ヴァイゲル『ウィーン・フィルの本』1967年、p.78)。
④演奏の場(歌劇場と室内楽)
ウィーン・フィルの楽員は、ウィーン国立歌劇場の管弦楽団の楽員でもあります。カルショーは、ウィーン・フィルが「なぜオペラのオーケストラとしてあれほど偉大なのか」を何度も書いています。毎晩のように歌劇場で弾いている経験が、この楽団の強みだという見方です。
⑤美しく弾く(価値の基準)
ヴァイゲルは、こう書いています。
一流の楽団で、うまく弾かない楽団はない。ある楽団はより上手に、ある楽団は少し劣る。ウィーン・フィルは「より美しく」弾くのだ。そしてウィーン・フィルのホルン奏者が音を外すと、ほかのホルン奏者が正しく吹くより、良い音がする。 (ヴァイゲル p.77)
⑥作曲家がこの響きを想定した(歴史の正統性)
1843年の新聞批評には、すでに「ドニゼッティは、ウィーンのために書くときは管弦楽を前に出す」という言い方が見えます。ただし、ウィーン・フィルの公式史を書いたヘルスベルク自身が、この説は確かめずに「議論に付すだけ」と断り、同じ時代のブダペストの新聞が「そのオペラは、もともとミラノのために書かれたものだ」と笑ったことも載せています(ヘルスベルク『王たちの民主制』1992年)。
この言い分を支えるように見えるのが、初演の多さです。ウィーン・フィルは、ブラームスの交響曲第2番(1877年)と第3番(1883年)、ブルックナーの交響曲第2番(1873年)、第4番(1881年)、第8番(1892年)を世界初演し、マーラーの交響曲第9番も、作曲者の死後、1912年にワルターの指揮で初めて演奏しました(楽団の公式の演奏記録による)。ウィーンの作曲家たちが、まずこの楽団で演奏されることを思い描いて書いた、と考えたくなる並びです。リヒャルト・シュトラウスが《ばらの騎士》の総譜に「甘いウィーン風のグリッサンド」を求める指示を書き込んだことも、第2章で見ます。
ただし、ウィーンの作曲家の代表作が、いつもこの楽団で初演されたわけではありません。ブラームスは交響曲第4番の初演をマイニンゲンの宮廷楽団に任せ、ブルックナーの交響曲第9番の初演は、ライバルのウィーン・コンツェルト協会が行いました。楽団が当時、こうした作品をどう扱い、のちにどう自分たちの伝統に取り込んだかは、第4章で見ます。
2 六つは、違う種類の主張である
この六つは、同じ物差しでは確かめられません。
| 言い分 | 何についての主張か | 確かめるのに要るもの |
|---|---|---|
| ①まとまっている | 演奏の特徴 | 録音、合奏についての具体的な証言 |
| ②人と伝承 | 特徴の原因 | 出身、教育歴、師弟関係、楽団内の指導の実態。そして、それらの違いがどの奏法や判断基準の違いにつながったか |
| ③楽器 | 物理的な原因 | 楽器の構造、どの楽器で何が違うか |
| ④演奏の場 | 特徴を育てる環境 | 勤務の仕組み、楽員の経験の記録 |
| ⑤美しく弾く | 価値の基準 | 誰が何を「美しい」としたかの記録 |
| ⑥作曲家の想定 | 歴史の正統性 | 作曲家自身の言葉、当時の演奏のしかた |
また、この六つはきれいに分かれるものでもありません。とくに①と⑤は近く見えますが、①は演奏の性質(音や合奏がそろっているか)についての主張で、⑤は演奏を評価する基準(何を美しいとするか)についての主張です。ヴァイゲルのホルンの話は、その境目をよく示しています。音程の正確さより、音色や表情や様式が合っていることを上に置く、という価値判断が語られているからです。「演奏の場」と「伝承」も重なります。以下では、主な分類と、重なる分類を分けて扱います。
もう一つ、目を引くことがあります。今回集めた資料の中で、均質性や土壌がとりわけ強い言葉で語られたのは、ナチ時代の1942年、創立百年のときでした。これらの言葉が当時どのような意味を持ち、楽団の自己理解や制度とどう結びついていたのかは、第4章と第6章で改めて検討します。
3 内側の声――コンサートマスターたちは何と言っているか
では、楽団の中の人は、どう語っているでしょうか。手元にある、近年のコンサートマスター四人の言葉を並べます。
ライナー・キュッヒル(コンサートマスター1971〜2016年)は、日本の伝統との比較で、「こちらでは伝統はそのまま受け継いできていますから」と語っています(『ライナー・キュッヒルの音楽手帳』p.67)。ところが同じ本の別の箇所では、こう言っています。
最近のウィーン国立音楽大学の先生は、さまざまな流派の方が増え、必ずしもウィーン風の弾き方でなくても良いという方向に変わってきています。ウィーン・フィルも、昔からすると変化したと思います。 (同 p.38)
聞き手が「ベルリン・フィルは大きく変わったが、ウィーン・フィルはそれほど変わっていない」と言うと、キュッヒルは「ウィーン・フィルの変化もベルリンと同じだ」と強く反対した、とも書かれています。
ヴェルナー・ヒンク(コンサートマスター1974〜2008年)は、こう語っています。
「どの指揮者が振っても、ウィーン・フィルの音は変わらない」とよく言われますが、これは必ずしも正確ではない。名指揮者を招くことで、オーケストラの側も彼らから学び、学んだものがオーケストラの伝統になってゆくのです。もちろん、ウィーン・フィルならではの音の伝統があるのは事実ですが、私たちはそれを後生大事に握り締めているわけではありません。そうしていれば、伝統は窒息してしまうでしょう。 (ヒンク語り下ろし 第1章 p.67〜68)
ライナー・ホーネック(コンサートマスター1992年〜)は、「ウィーン・フィルでは、共通する音のイメージをみんなが持っています。みんなで共有しているフレージングの伝統や、スウィングのしかたがあります」と語ります。そして、ふだん歌劇場ですばらしい歌手たちと演奏しているので、「彼らを真似て弾こうと試みる」とも言います(『世界のコンサートマスターは語る』p.58)。
アルベナ・ダナイローヴァ(コンサートマスター2008年〜、ブルガリア出身、楽団初の女性コンサートマスター)は、こう語っています。
ブルガリアの楽器の演奏法は、伝統的にウィーンの奏法とあまり違わないのです。 (同 p.56)
並べてみると、語り方の違いが見えてきます。
キュッヒルとヒンクは、伝統が受け継がれていることと、演奏が変わってきたことを、はっきり分けて語っています。ホーネックは、共有された音のイメージ、フレージングの伝統、歌劇場での経験を、具体的に説明しています。三人はウィーンで育ち、ウィーンで学んだ人です。
ここから、一つの見方を立ててみます。楽員が共有する「こう鳴るべきだ」という感覚、つまり音のイメージや伝統を上の層とし、具体的な弾き方や響きを下の層とすると、上の層は受け継がれ、下の層は動く、という見方です。ただし、この上下の区別は、彼らの言葉を並べて筆者が立てた仮説であって、まだ確かめられた構造ではありません。第2章の奏法と、第4章の制度と教育を調べながら、どこまで成り立つかを見ていきます。
一方、ブルガリアで学び、外の流派から入ったダナイローヴァは、ウィーンとブルガリアの奏法は「あまり違わない」と述べています。三人が伝統の共有を語るのに対し、彼女の言葉は、奏法がウィーンに固有であるという前提そのものに疑問を投げかけます。しかも、外の批評家の想像ではなく、楽団の中で演奏を率いるコンサートマスターの証言です。
この発言には、二通りの読み方ができます。ウィーンの奏法が、実際に外の奏法と近いのかもしれません。あるいは、「ウィーンの奏法」として語られてきたものが、ヴァイオリンの奏法に広く見られる特徴なのかもしれません。どちらなのかは、発言だけでは決まりません。
もちろん、一人の奏者の証言だけで、両者の奏法が同じだとは言えません。けれども少なくとも、ウィーンの奏法が外の奏法とはっきり区別できる、という前提は、当事者の証言からは置けないことになります。「ウィーンの奏法は固有だ」と言う側にも、比べられる根拠が要る、ということです。それを確かめるのが、次の章です。
4 外からの検証
研究者の側からの検証もあります。
ウィーン・フィルとほかの楽団が演奏した同じ箇所の録音を聴き比べ、どちらがウィーン・フィルかを当て、違いを言葉にしてもらう、という大規模な聴き取りの調査が行われました。オーストリアの五百人を超える人に加え、アテネ、パリ、ワルシャワ、プラハの音楽家、ベルリンとハンブルクのドイツ・グラモフォンの関係者まで、数百人のプロの音楽家、アマチュア、音大生、愛好家が答えています。結果について、歴史家フリッツ・トゥリュンピはこう書いています。
ウィーンに特有のものが何かを、一義的に分類することはできなかった。 (トゥリュンピ p.9〜10)
ここで気をつけたいのは、「一義的に分類できなかった」は「違いが無かった」と同じではない、ということです。
もう一つ、ウィーン・フィルをベルリン・フィルやニューヨーク・フィルと聴き分けられるかを調べた研究があります(マティアス・ベルチュ、2003年)。ドルーの博士論文の紹介によると、「ウィーンの響き」を見分ける手がかりとしては、楽器の音色よりも弾き方の方が大きかった、とされています。ただし、筆者はこの研究の原論文をまだ読めておらず、聴き比べの条件や「弾き方」の定義は確かめられていません。ここでは、そうした結果が報告されている、という紹介にとどめます。
なお、二つの研究は同じことを調べたわけではありません。「ウィーンらしさ」を一つの明確な特徴として言い当てられないことと、楽団を聴き分ける手がかりがあることは、両立します。
トゥリュンピは、ベルリン・フィルの「ドイツ的」、ウィーン・フィルの「ウィーン的」という呼び方そのものに長い歴史があるとして、それを「イメージをブランドにしていく過程」の結果として読み解こうとしています。
5 この章でわかったこと
「ウィーンの音」は、一つの主張ではありませんでした。音のまとまり、人と伝承、楽器、歌劇場の経験、美しさの基準、作曲家の想定という、性質の違う六つの言い分の束です。
そして、楽団の内側でも外側でも、「ウィーンの音」は語られてきました。ただし、その語り方は同じではありません。1942年の記念誌や演説では、均質性や出身の土壌が、独特の響きの根拠として強く語られています。一方、近年のコンサートマスターたちは、共有された音のイメージや伝統を認めながら、具体的な奏法や響きが変わってきたことも語っています。
つまり、受け継がれるとされるものと、実際に変わってきたものは、分けて考える必要があります。では、その弾き方は、実際にどう変わってきたのか。次の章で、ヴィブラートとポルタメントという二つの弾き方を手がかりに確かめます。
参考文献
このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。
- クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
- フリッツ・トゥリュンピ『The Political Orchestra: The Vienna and Berlin Philharmonics during the Third Reich』ケネス・クローネンバーグ英訳、University of Chicago Press、2016年(独語原著 Politisierte Orchester, 2011年)
- オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル 前楽団長が語る半世紀の歴史』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年(原著 Und dafür wird man noch bezahlt, 1974年) リンク
- ヴィルヘルム・イェルガー『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』Wiener Verlagsgesellschaft、1942年 リンク
- ジョン・カルショー『Putting the Record Straight』Viking、1982年(邦訳『レコードはまっすぐに あるプロデューサーの回想』山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年) リンク
- ジョン・カルショー『ニーベルングの指環 録音プロデューサーの手記』黒田恭一訳、音楽之友社、1969年 リンク
- ウィーン・フィル公式サイトの演奏会アーカイブ(1842年〜。2026年10月取得) リンク
- ウェルナー・ヒンク語り、小宮正安構成・訳『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』アルテスパブリッシング、2017年 リンク
- ライナー・キュッヒル、野村三郎『名コンサートマスター、キュッヒルの音楽手帳 ウィーン・フィルとともに45年間』音楽之友社、2016年 リンク
- 音楽の友編『世界のコンサートマスターは語る』音楽之友社、2020年 リンク
- カール・ベーム『回想のロンド』高辻知義訳、白水社、1970年 リンク
- ハンス・ヴァイゲル編『Das Buch der Wiener Philharmoniker』1967年 リンク
- マティアス・ベルチュによる聴き分けの研究(2003年)。ドルーの博士論文での紹介による
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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか
見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。



