「ウィーンの響き」は本当にあるのか(第3章)誰がその音を作り、変えてきたのか
稽古の量、指揮者を受け入れるか拒むか。マーラー、リヒャルト・シュトラウス、トスカニーニ、マゼール、シャイー、ショルティとの場面と、1940年にベルリン・フィルを聴いた翌日の委員会の議事録から、楽団と指揮者の綱引きを見ます。
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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか
第2章では、具体的な奏法が世代を超えて一様に保たれてきた、という説は資料から確かめられない、と見ました。では、演奏の水準や方向は、誰が、何によって決めてきたのでしょうか。
オーケストラの演奏は、楽員だけでも、指揮者だけでも決まりません。この章では、両者がぶつかった場面を手がかりにします。ぶつかった場面には、それぞれが何を当然と考えていたかが、はっきり表れるからです。
取り上げる資料は、楽団の公式史、楽員の回想、指揮者やレコード会社の関係者の記録です。指揮者との摩擦は、資料の中に独立した出来事として20件ほど見つかりました。ここではその中から、繰り返し現れる争点を三つ選びます。稽古の量、指揮者を受け入れるか拒むか、そして楽団の流儀を変えようとする指揮者への反応です。
先に断っておくと、ここで扱う証言の多くは、何十年も後の回想や、立場のある人の発言です。出来事そのものと、その出来事がどう語られたかは、分けて読む必要があります。
1 稽古の量という争点
1899年:マーラーの演説
1899年8月24日、楽団の総会は、宮廷歌劇場の監督グスタフ・マーラーを、翌シーズンの演奏会の指揮者に選び直しました。票はマーラー61、ヘルメスベルガー(子)19、モットル1です。ところがマーラーは、この選出を受けませんでした。理由として、彼は楽員の代表にこう伝えています。
私は、稽古が多すぎる、長すぎる、と非難されていると聞いている。だが諸君、稽古は芸術の力を発揮するための第一の条件だ。私たちは聴衆に完全なものを届ける責任があり、それは良心的な稽古によってしか成し遂げられない。……劇場では諸君は私の部下だ。だが、諸君が自由に選んだ指揮者としては、稽古を負担と感じる楽員たちの批判を受けなければならない。諸君には、独立した選挙人として、批判し、私が必要と考える措置に逆らう、侵すことのできない権利がある。しかし同じように、私にも、自分の芸術上の評判を守る権利がある。 (ヘルスベルク『王たちの民主制』第9章)
この演説から分かるのは、二つのことです。一つは、楽員の中に、稽古の多さを負担とする声がはっきりあったこと。もう一つは、楽員が指揮者を選ぶ立場にあったため、歌劇場では上司である監督も、演奏会では楽員の判断にさらされたことです。
1967年の記念誌で、作家ハンス・ヴァイゲルは、マーラーを、慣れた曲でも徹底して稽古することを原則にした、「外から来る」指揮者の極端な例と書いています。そして、その独裁者型の指揮者が「フィルハーモニーの共和国」とうまくいかなかったのは不思議ではない、と述べています(ヴァイゲル編『ウィーン・フィルハーモニーの本』1967年、p.59)。
1906年:一回の稽古で済ませた作曲家
正反対の例もあります。1906年8月、ザルツブルクで予定されていた指揮者が病気で降り、代わりにリヒャルト・シュトラウスが初めてウィーン・フィルを指揮しました。曲はブルックナーの第9番を含む演目です。当時の新聞は、こう書いています。
演奏は期待以上にうまくいった。しかも、一回の稽古で。フィルハーモニカーはこういうことを高く買う。この優れた楽員たちの目には、少ない稽古で済む指揮者ほど、試験に合格する者はいない。 (ヘルスベルク 第10章に引かれた当時の新聞)
これは新聞記者の皮肉まじりの観察で、楽員自身の言葉ではありません。ただ、マーラーの演説と並べると、稽古を少なく済ませることを良しとする空気が、楽団の外からも見えていたことが分かります。
1933年:トスカニーニの稽古
1933年10月、アルトゥーロ・トスカニーニがウィーン・フィルを初めて指揮しました。のちに楽団長となるオットー・シュトラッサーは、トスカニーニが普通は3回の稽古を5回求めたこと、そして楽団が、稽古と演奏での「ウィーン式の気楽な雰囲気(ゲミュートリヒカイト)」について、事前にきつく注意を受けたことを書いています(シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.201)。公式史によると、当時の楽団長ブルクハウザーは、楽員にトスカニーニの仕事の仕方を伝え、振る舞いの決まりまで用意していました(ヘルスベルク 第11章)。
当時ウィーンの音楽院の学生だったヴァイオリニスト、フェリックス・ガリミールは、後年こう回想しています。
トスカニーニは、とてつもない回数の稽古を求めたと思う。ウィーン・フィルは、そんなものは要らない、あるいは出したくない、と考えていた。……トスカニーニは、彼らに稽古でも弾いてほしかった。彼らがそれに慣れるには長い時間がかかった。……稽古の前に、ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者が全員、自分のパートをさらっていた。マーラーが去って以来、一度もなかったことだ。そして、その稽古は本当に素晴らしかった。響きは見事で、とても精密だった。あの楽団があんなふうに鳴るのを、私たちはそれまで聞いたことがなかった。 (ホーギン『トスカニーニと楽員たち』p.199〜200)
「稽古でも弾いてほしかった」という言い方は、裏を返せば、楽団には、稽古では力を抜き、本番で弾けばよい、という習慣があったことを示しています。ただし、これは一人の学生の、数十年後の回想です。「マーラー以来」という比較も、ガリミール自身が1907年以前を知っていたわけではありません。楽団の中でそう言われていた、という程度に受け取るのが安全です。
歌劇場の仕事との兼ね合い
稽古の量をめぐる争いには、背景があります。ウィーン・フィルの楽員は、国立歌劇場の管弦楽団の楽員でもあります。1992年の公式史は、9月から6月まで、ほとんど毎晩オペラの上演があり、労働協約のもとで年に最大120回の稽古がありうること、その上に年およそ100回の演奏会と録音が重なることを書いています(ヘルスベルク 第13章)。演奏会の稽古を増やすことは、この二重の仕事の上にさらに負担を重ねることでした。
稽古を嫌うことを、怠けと決めつけることはできません。毎晩の上演で鍛えられた楽員にとって、少ない稽古で合わせられることは、腕前の証しでもあったからです。一方で、マーラーやトスカニーニのように稽古を求めた指揮者のもとで、楽団の演奏が変わったと語る証言もあります。演奏の出来は、楽団がもともと持つ腕前だけで決まるのではありませんでした。稽古をどこまで求めるか、楽団がそれにどう応じるかによって、その場の演奏が変わりうることを、これらの証言は示しています。
2 指揮者を受け入れる、拒む
楽団は、自分たちの演奏会の指揮者を、自分たちで選びます。この権利が、指揮者との関係にどう表れたかを見ます。
拒まれた指揮者たち
デッカのプロデューサー、ジョン・カルショーは、1960年代の初めごろ、ハンガリー出身の若い指揮者イシュトヴァン・ケルテスを楽団に紹介しました。ケルテスはのちに各地で評価されますが、ウィーンでだけは駄目だった、とカルショーは書いています。カルショーは、その理由を、ケルテスがハンガリー人だったことに求めています。楽団がそう表明したわけではなく、これはカルショーの見方です。同じころ紹介したアメリカ人ロリン・マゼールも、楽団は好みませんでした。楽員が「よく知っているつもりの曲目について、再考させようとした」からです(カルショー『Putting the Record Straight』1982年、p.191〜192。邦訳『レコードはまっすぐに』p.265〜266)。
指揮者の伝記を数多く書いたノーマン・レブレヒトも、ほぼ同じことを書いています。楽員はマゼールを若造として嫌った。自分たちの財産と考えていたレパートリーを考え直させようとしたからだ。ただし、マゼールが年を重ねると、楽団は彼のオペラへの共感をだんだん理解するようになった、とも書いています(レブレヒト『巨匠神話』p.344)。
1988年の夏、ザルツブルク音楽祭で、楽団はイタリアの若い指揮者リッカルド・シャイーに対してストライキをしました。レブレヒトによると、原因は、シャイーが楽団の稽古のやり方を批判する不用意な発言をしたことで、シャイーはその年、音楽祭から外されました(レブレヒト p.325、p.490)。
レブレヒトは、あるレコード・プロデューサーの、次のようなぼやきも書き留めています。「ウィーン・フィルは、どんな指揮者にもいい顔をしない。故人か、死にかけている指揮者以外は」(同 p.325)。
受け入れられた指揮者:ショルティをめぐる二つの証言
受け入れた例として、よく引かれるのがゲオルク・ショルティです。カルショーは、ショルティとの《ニーベルングの指環》の録音について、楽団の幹部の言葉を書き留めています。
ウィーン・フィルのワーグナーの響きと様式は、ほかの大オーケストラとは大きく違います。その違いは、とくに管楽器の奏者に対して、伝統的に私たちの学校で教えられます。……私たちがショルティをとても気に入ったのは、彼がこの伝統を理解し、認め、私たちの様式や音を無理に無視することなく、私たちが学んだやり方で演奏させてくれたからです。 (カルショー『ニーベルングの指環』p.219)
ここには、楽団が指揮者に何を求めていたかが、はっきり出ています。自分たちの流儀を変えさせないことです。
ところが、レブレヒトは逆のことを書いています。ウィーン・フィルは、意志の強いショルティへの嫌悪を隠さなかった。それでもデッカは、彼にベートーヴェンの交響曲と《指環》を指揮させた、というのです(レブレヒト p.325)。
二つの証言は、話し手も立場も違います。カルショーが記録したのは、録音の企画に関わった楽団の幹部が、ショルティのワーグナーへの向き合い方を評価した言葉です。カルショーは、その録音を企画したプロデューサーでもあります。一方、レブレヒトは、楽団と指揮者の関係を外から描く書き手として、楽団のショルティへの嫌悪を書いています。
しかも、カルショー自身も、別の本ではまったく違うことを書いています。自伝『レコードはまっすぐに』で、1957年にショルティとリヒャルト・シュトラウスの《アラベラ》を録音したあと、ショルティが複雑な気持ちでウィーンを去った場面について、こう書いているのです。
彼一人のせいにはできなかった。ウィーン・フィルは、その気になれば獰猛な反ユダヤ主義者となりうる。そしてこのときは、ショルティがその標的なのだった。 (カルショー『Putting the Record Straight』1982年、p.153。邦訳『レコードはまっすぐに』p.210)
ショルティはハンガリー生まれのユダヤ系の指揮者です。同じプロデューサーが、1957年には楽団の反ユダヤ主義の標的としてショルティを描き、1964年の《神々の黄昏》のころには、楽団の幹部がショルティを褒めた言葉を記録しています。
確かめられるのは、ショルティへの評価が、証言の中で一様ではないということです。そして、カルショーの二つの記述を並べると、時期によって楽団の態度が変わった可能性が見えてきます。ただし、それが楽団全体の変化だったのか、管楽器の奏者のように一部の楽員の評価だったのか、場面の違いによるのかは、今回の資料からは分かりません。ここでは、証言を無理に一つにまとめず、食い違いのまま残しておきます。楽団の反ユダヤ主義の歴史そのものは、第6章で見ます。
ただ、レブレヒトは、もう一つのことを書いています。楽団が演奏会の指揮者を選ぶ権利は、レコード会社の人選には及ばなかった、ということです。
なお、カルショーが記録した幹部の言葉には、「ハンガリー人こそ、本当に正しいリズムを持つ唯一の民族だ」という一言が続きます。同じ楽団が、同じころ、ハンガリー人のケルテスを拒んでいたことと並べると、出身についての言葉が、その場の評価に合わせて使われていたことがうかがえます。
マーラーとバーンスタインについての注意
指揮者と楽団の関係を語るとき、よく引かれる話があります。「バーンスタインが来るまで、ウィーン・フィルはマーラーを1ページも弾けなかった」というものです。レブレヒトは、これを明白に事実に反する話としています(レブレヒト p.327〜328)。ウィーン・フィルは、マーラーの生前から彼の作品を弾いています。
事実として扱えるのは、戦後、バーンスタインがウィーン・フィルとマーラーを演奏しようとしたとき、「ユダヤ人の作曲家」の作品への強い抵抗に向き合わなければならなかった、という点です(テンシュテットの伝記『Possessed』p.136)。この問題は第6章で改めて扱います。
3 楽団が語る、自分たちの演奏
1940年:ベルリン・フィルを聴いた翌日の委員会
楽団の内側にも、自分たちのやり方を疑う声がありました。歴史家フリッツ・トゥリュンピは、楽団の議事録をもとに、次のような場面を紹介しています。
1938年から1945年のあいだに、ベルリン・フィルがウィーンで演奏したのは、1940年5月の一度だけでした。その演奏会を企画したのは、ウィーン・フィル自身です。演奏会の翌日、楽団の委員会でその感想が話し合われました。議事録によると、楽団長のヴィルヘルム・イェルガーは、ベルリン・フィルの規律と個々の奏者の腕前に強い印象を受けた、と述べています。ただし、演奏は力強く精密だが、とりたてて温かみはなく、弦の音は押しつけられたようだった。ベルリンの響きと比べると、ウィーンの弦、木管、ホルンの方が表情豊かで洗練されている、とも述べています。
このときの議事録で目を引くのは、のちの楽団長オットー・シュトラッサーの発言です。
一つ、とても大事なことがある。ベルリンの楽団は、私たちの楽団よりはるかに熱心に演奏する。だから、私たちの楽団にも、伝統的な音楽のやり方を捨てずに、今の条件に合わせようという意欲を呼び起こさなければならない。もはや今の時代に合わないものに教条的にしがみつくことは、場合によっては、私たちの楽団にとって非常に不利になりうる。疑いなく非常に良い伝統、過去の条件には完全に合っていた伝統でも、今の時代に合わせなければならないのに、それに固執するのは、ウィーンの人間の重大な誤りだろう。 (トゥリュンピ『政治的なオーケストラ』英語版 p.687〜688。楽団の議事録からの引用)
1922年、シュトラッサーは入団試験で、当時の楽団の規範と自分の弾き方とのずれを経験しました。1940年には、今度は楽団の側に立つ人物として、伝統に教条的にしがみつく危険を語っています。二つの場面は同じ問題を直接論じたものではありません。それでも並べると、楽団の伝統が、守るべき規範であると同時に、見直しの対象にもなっていたことが分かります。しかも、このとき比べる相手は、「温かみがない」と評したばかりのベルリンでした。
この発言は、楽団の中に「伝統的なやり方」と「今の条件に合わせること」を分けて考える見方があったことを示しています。第1章で見た、近年のコンサートマスターたちの語り方と同じ形が、1940年の議事録にすでに現れていることになります。ただし、これはナチ時代、ベルリンとの競争を意識せざるを得なかった時期の発言です。その文脈は第6章で改めて扱います。
鍵になる小話
最後に、楽団自身が自分たちと指揮者の関係をどう語ってきたかを見ます。
1967年の記念誌に、楽団を理解するための「鍵になる話」として紹介されている小話があります。フルトヴェングラーは、はっきりした拍を示さず、震えるような動きで指揮をしました。それなのに、ベルリンでもウィーンでも、楽団は同じ瞬間に正確に弾き始めます。不思議に思った音楽好きが、まずベルリン・フィルの楽員に尋ねると、こう答えました。「最初は難しかった。でも方法を見つけた。右腕が譜面台の縁と45度になったら入るんだ」。同じことをウィーン・フィルの楽員に尋ねると、こう答えました。
いや、それはですね、待って、待って、待って、それで、ばかばかしくなったら、弾き始めるんです。 (ヴァイゲル編 1967年、p.93)
これは作り話かもしれません。けれども、楽団の公式の記念誌が、これを自分たちを理解する鍵として載せていることに意味があります。いつ弾き始めるかを決めるのは、最後は自分たちだ、という自己像です。
4 指揮台の国際化
最後に、誰が指揮台に立ってきたかを、数字で見ておきます。楽団の公式の演奏記録から、指揮者の国籍を10年ごとに数えると、次のようになります(国籍は Wikidata による。国籍を複数持つ指揮者は、それぞれの国に数えています)。
| 年代 | 国籍の分かる公演 | オーストリア国籍の指揮者 | 指揮者の国籍の数 | 多い国籍 |
|---|---|---|---|---|
| 1910年代 | 211 | 91% | 7 | オーストリア、ドイツ |
| 1930年代 | 710 | 41% | 15 | ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア |
| 1950年代 | 771 | 38% | 17 | ドイツ、オーストリア、アメリカ、チェコ |
| 1970年代 | 699 | 36% | 20 | オーストリア、ドイツ、イタリア、アメリカ |
| 1980年代 | 782 | 15% | 16 | アメリカ、イタリア、フランス、ドイツ |
| 1990年代 | 892 | 4% | 23 | イタリア、アメリカ、イギリス、フランス |
| 2010年代 | 1,276 | 12% | 25 | アメリカ、ドイツ、オーストリア、イタリア |
第一次世界大戦の前は、指揮台のほとんどがオーストリアの指揮者でした。1933年に客演の方式へ移ると、ドイツ、フランス、イタリアの指揮者が増え、戦後はアメリカ、そして1980年代以降は、ロシア、インド、日本、ラトビアなど、指揮者の国籍はさらに広がります。1990年代には、オーストリア国籍の指揮者が振った公演は、全体の4%にまで減りました。
この章で見た綱引きは、相手の顔ぶれが変わりながら続いてきたことになります。楽団の流儀を知る地元の指揮者を相手にした時代から、世界中から来る客演の指揮者を相手にする時代へ。楽団が指揮者を選ぶ権利を保ったまま、選ぶ相手の範囲が広がっていった、と見ることができます。楽員の国籍が変わり始めるのは、指揮台よりずっと遅く、1990年代の後半からでした(第2章)。
この変化は、看板の指揮者が入れ替わっただけではありません。1970年代から2010年代にかけて、国籍の分かる公演は577回増えましたが、ドイツとオーストリアの指揮者の公演はむしろ25回減り、増えた分はすべてそれ以外の国の指揮者が振っています。その背景には、戦後のドイツ語圏で指揮者の層が細ったことや、ジェット機の時代に名のある指揮者がいくつもの首席を掛け持ちするようになったことがあると考えられます。詳しい数字と図は「仮説と検証」の仮説1・2・24にまとめました。
5 この章でわかったこと
稽古の量、指揮者の受け入れ、楽団の流儀を変えようとする指揮者への反応。三つの争点を通して見えてきたのは、次のようなことです。
楽団には、少ない稽古で演奏をまとめることを腕前の証しと見る傾向があり、それは外の観察者にも見えていました。また、マゼールの例では、慣れたレパートリーの解釈を考え直させようとする指揮者への反発が記録されています。ただし、この二つが同じ理由から生じていたかは、今回の資料だけでは分かりません。いずれにしても、楽団は指揮者を選ぶ権利を持っていました。マゼールやシャイーへの反応、ケルテスが迎えられなかったことは、その権利が使われた例として読めます。
一方で、マーラーやトスカニーニのように、稽古を求め、楽団のやり方に逆らった指揮者のもとで、演奏が変わったと語る証言もあります。ただし、それが楽団の音を長く変えたのか、その場の演奏を引き上げただけなのかは、今回の資料からは分かりません。
そして、楽団の内側にも、伝統にしがみつくことの危うさを語る声がありました。1940年のシュトラッサーの発言は、楽団が自分たちの流儀を、守るべきものと、時代に合わせて変えるべきものに分けて考えていたことを示しています。
つまり、演奏の方向は、楽団か指揮者のどちらか一方だけで決まっていたのではありません。楽団が主導権を持ち、指揮者がそこにどこまで踏み込めるかをめぐって、綱引きが続いていました。稽古の量や解釈をめぐる証言からは、その綱引きが、少なくとも個々の演奏の出来に影響しえたことが分かります。ただし、それが楽団の演奏を長期的にどう変えたかは、今回の資料だけでは特定できません。
では、楽団がこの主導権を持てたのは、なぜだったのか。そして、その権利は、何を伝統に入れ、何を外すために使われたのか。次の章で、楽団の自治の仕組みを見ていきます。
参考文献
このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。
- クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
- フリッツ・トゥリュンピ『The Political Orchestra: The Vienna and Berlin Philharmonics during the Third Reich』ケネス・クローネンバーグ英訳、University of Chicago Press、2016年(独語原著 Politisierte Orchester, 2011年)
- オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル 前楽団長が語る半世紀の歴史』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年(原著 Und dafür wird man noch bezahlt, 1974年) リンク
- ヴィルヘルム・イェルガー『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』Wiener Verlagsgesellschaft、1942年 リンク
- ジョン・カルショー『Putting the Record Straight』Viking、1982年(邦訳『レコードはまっすぐに あるプロデューサーの回想』山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年) リンク
- ジョン・カルショー『ニーベルングの指環 録音プロデューサーの手記』黒田恭一訳、音楽之友社、1969年 リンク
- ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか』河津一哉・横佩道彦訳、文藝春秋、1996年 リンク
- ウィーン・フィル公式サイトの演奏会アーカイブ(1842年〜。2026年10月取得) リンク
- ハンス・ヴァイゲル編『Das Buch der Wiener Philharmoniker』1967年 リンク
- B・H・ハギン『The Toscanini Musicians Knew』1967年(1980年版)
- Wikidata(指揮者・作曲家の国籍と生没年) リンク
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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか
見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。



