シネ・イーラ ── 「怒りも贔屓もなく」(タキトゥス『年代記』1巻1節)

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音楽歴史  15,416字

「ウィーンの響き」は本当にあるのか(第6章)自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか

同じ自治が、共同体を守る力にも、人を外へ出す力にもなりました。マーラーの時代の楽団の溝、第一共和国期の採用、ナチ時代の解雇と殺害、シーラッハとの関係、戦後の元SSの事務局長と1956年の手紙。公式史と外部の研究を並べて確かめます。

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか(この記事)
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

第4章と第5章では、楽団が自分たちで決める権利を持ち、その権利で伝統の中身を選び、その名前が価値になっていった過程を見ました。この章では、同じ権利が、人に対してどう使われたのかを見ます。

問いは一つです。伝統を自分たちで定義する権利を持った共同体は、その権利を、誰に対して、どう使ったのでしょうか。

この章では、三つのことを守って書きます。

  1. 主体を分けます。 「楽団が」と書くとき、それが総会の決定なのか、委員会や楽団長の判断なのか、個々の楽員の行動なのか、国家や党の命令なのかを、できるだけ区別します。
  2. 数字には分母と定義を付けます。 何人のうちの何人か、誰の数え方かを書き、資料によって数が違う場合は並べて示します。
  3. 何を示し、何を示さないかを、同じ場所に書きます。 そして、楽団の音の特徴を、楽員の政治的な立場や出自に結びつけて説明することはしません。

使う資料は、主に二つです。一つは、楽団の資料係で、のちに楽団長となったクレメンス・ヘルスベルクが書いた1992年の公式史。もう一つは、外部の歴史家フリッツ・トゥリュンピの研究です。トゥリュンピによると、ヘルスベルクは2003年、楽団の史料室を見たいというトゥリュンピの求めを、議事録には楽員の「とても個人的な問題」が書かれており、公開は協会の利益にならない、という理由で断っています(トゥリュンピ『政治的なオーケストラ』英語版 p.22)。トゥリュンピは2003年と2004年に断られたあと、2008年までに、史料をほぼ制限なく使えるという合意を楽団と結びます。外部の研究者が楽団の史料を見たのは、これが初めてで、それまで史料は、公式史の中で抜粋の形でしか公にされていませんでした(同 p.22〜23)。公式史は多くのことを自ら認めていますが、書かれなかったこともあります。この章では、その両方を示します。

1 マーラーの時代(1897〜1907年)

楽団は、選んだ指揮者を立てた

まず、楽団が筋を通した場面から見ます。1897年からウィーン市長を務めたカール・ルエーガーは、反ユダヤ主義を掲げて支持を集めた政治家でした。市当局が、楽団が慈善演奏会の指揮者に立てたマーラーを拒んだとき、楽団は自分たちが選んだ指揮者を譲らず、演奏会そのものを取りやめています。公式史は、この市当局を「周知の反ユダヤ主義の市当局」と書いています(ヘルスベルク『王たちの民主制』第9章。ラ・グランジュ『マーラー』第1巻も同じ経緯を記す)。

楽団の中の溝

一方で、楽団の内側には、反ユダヤ主義がありました。公式史は、それを自分の言葉で認めています。

  • 反マーラー派は、「反ユダヤ主義の少数派」と、前任の指揮者ハンス・リヒターを慕う楽員たちの「同盟」でした。少数派は楽団の内情を新聞に流し、それが「宮廷歌劇場のユダヤ人支配」といった扇動記事になりました(ヘルスベルク 第9章。ラ・グランジュも、匿名の記事「宮廷歌劇場のユダヤ人」と楽員の一部の敵意を記している)。
  • 1903年、常任の指揮者をやめて客演に切り替える採決(58票対42票)について、公式史は、総会での楽員の発言を分析すると、賛否の対立が「ユダヤ系の楽員と、反ユダヤ主義の楽員の溝」に重なる、と指摘しています。「認めるのはつらい」と添えています(同 第10章)。この分析は公式史のもので、筆者が議事録で確かめたものではありません。
  • 1905年、反マーラー派の中心だった楽団の書記は、職務の中でも反ユダヤ主義の傾向に導かれていた、と公式史は書いています。その書記は、のちにその傾向から「次第に離れた」とも書かれています(同 第10章・第11章)。

ただし、公式史は、マーラーと楽団の対立の主な原因は、マーラーの対決型のやり方にあったとし、反ユダヤ主義という「よく知られた紋切り型」ですべてを説明することは退けています(同 第9章)。マーラーの妻アルマや、ブルーノ・ワルター、伝記作家ラ・グランジュは、反ユダヤ主義の比重をもっと重く見ています。

ここから言えるのは、反ユダヤ主義が、対立の層の一つとして楽団の中にあったことは、公式史自身も認めている、ということです。その比重がどれほどだったかは、資料によって評価が分かれます。

注:ウィーンの弦の流派の内側にも、排除はありました。ヴァイオリン教育者カール・フレッシュは、1880年代の音楽院の大御所ヨーゼフ・ヘルメスベルガー(父)が嫌ったものとして、ユダヤ人、近眼、そしてライバルの教師グリューンの弟子、の三つを挙げています(フレッシュ『回想録』p.22)。これは、ウィーンの弦楽教育全体の傾向を示すものではなく、フレッシュが書き留めた、一人の教師の選り好みです。

2 第一共和国(1918〜1938年)

公式史は、この時期の楽員の採用と出自の関係について、ほとんど書いていません。

トゥリュンピは、こう書いています。1938年に連邦劇場管理局が作った名簿は、楽団のユダヤ系の現役の楽員を11人、ユダヤ系の女性と結婚している楽員を10人と数えていた。ところが、1920年から1938年までに楽団に入った50人のうち、ユダヤ系の出自の人は一人もいなかった(トゥリュンピ p.311)。前の二つの数字は、併合後の当局がナチの人種の区分で作った名簿によるものです。50人についての判定の基準は、トゥリュンピの本文には書かれていません。

トゥリュンピは、この一文のすぐあとに、「例外が規則を証明する」として、リカルド・オドノポソフを挙げています。ロシア系でユダヤ系の出自を持つアルゼンチンのヴァイオリニストで、1933年12月、19歳でコンサートマスターとして迎えられ、1935年9月に正式に楽団の会員になりました。当時の歌劇場長クレメンス・クラウスの引きで、入団試験は受けていません。そして、このいつもと違う入り方の代償として、彼は自分に向けられた陰謀に耐えなければならず、クラウスが1935年初めにベルリンへ移るまで、彼を守っていたのはクラウスでした(トゥリュンピ p.311〜312)。

オドノポソフが50人に含まれるのか、50人とは別に数えられているのかは、トゥリュンピの本文からは読み取れません。また、楽団のサイトに載っている歴史家マイヤーホーファーの伝記によると、ユダヤ系の出自のヴァイオリン奏者ゲリンガーとファルクが、1920年の3月と9月に入団しています。トゥリュンピの「1920年から」とは、始まりの年で食い違います。二つを合わせると、1921年から1938年までに楽団に入ったユダヤ系の出自の人は、通常の入団試験を経ずに入ったオドノポソフ1人だけ、ということになります。

この数字だけでは、採用の偏りが、どのような判断の積み重ねによって生じたのかまでは分かりません。ただし、1920年から1938年までの採用の結果に、はっきりした偏りがあったことは示されています。

第4章で見た、1920年にコルンゴルトの序曲が楽員の野次で引き下げられた件についても、トゥリュンピは、作曲者と、その父で影響力のある批評家だったユリウス・コルンゴルトへの反ユダヤ主義として読みうる、としています(同 p.143)。これも、読みうる、という段階の指摘です。

3 ナチ時代(1938〜1945年)

解雇、亡命、殺害

1938年3月、オーストリアはナチス・ドイツに併合されました。この時期については、公式史もトゥリュンピも、名簿と数字を詳しく出しています。ただし、数字はいくつかの点で違います。

項目 公式史(ヘルスベルク 1992年) トゥリュンピ(2016年英語版)
人種上の理由で解雇された現役の楽員 11人 11人(ユダヤ系の現役)
「混血」や「縁者」とされながら、特別の許可で残った楽員 9人 ユダヤ系の女性と結婚していた楽員が10人。うち特別の許可を受けた4人の名を挙げる
亡命できた楽員 (名簿で示す) 9人(ブルクハウザー、ブクスバウム、ファルク、フェーデル、ゲリンガー、オドノポソフ、ロゼー、ザランダー、ヴィッテルス)
殺害された、または迫害の中で亡くなった楽員 6人 7人(併合の時点ですでに年金生活に入っていた4人を含む)
ナチ党員の割合 1938年に約36%、のち約42%。終戦時に50人を超える 1938年に約36%(併合前からの非合法の党員25人と、併合直後の入党14人。合わせて39人で、逆算すると分母は約108人)、のち約50%。ウィーン市民の党員の割合は最大でも8%

表の数字について、三つ注意があります。

  1. 「特別の許可で残った」の行は、二つの資料で分類が違います。公式史の「混血」「縁者」の9人と、トゥリュンピが挙げるユダヤ系の女性と結婚していた10人は、同じ集団を指すとは限らず、人数をそのまま比べることはできません。
  2. 「殺害・迫害死」の6人と7人の違いは、1942年にウィーンで亡くなったパウル・フィッシャーを、迫害の中での死に数えるかどうかの判断の違いです。どちらかが単純に誤っているわけではありません。
  3. 党員の割合は、トゥリュンピによると、戦後の脱ナチ化の手続きのために作られた名簿から数えたものです。正確な数は得にくいと、トゥリュンピ自身が断っています(同 p.423〜424)。分母の約108人は、トゥリュンピが本文に書いた数ではなく、39人と36%から筆者が逆算したものです。ウィーン市民の8%は、同じ定義の数字ではない可能性があります。この比較から言えるのは、楽員の党員の割合が高かったとする研究がある、というところまでで、市民全体との厳密な比較は、分母と定義を確かめてからになります。

殺害された、または迫害の中で亡くなったのは、トゥリュンピの数え方で、パウル・フィッシャー、モーリツ・グラッタウアー、ヴィクトル・ロビツェク、マックス・シュタルクマン、ユリウス・シュトヴェルトカ、アルミン・ティローラー、アントン・ヴァイスの7人です(トゥリュンピ p.312〜313)。公式史は、1942年にウィーンで亡くなったフィッシャーを「自然死」として、6人と数えています。

1881年から57年間、宮廷歌劇場(のち国立歌劇場)のコンサートマスターを務めたアルノルト・ロゼーも、1938年に楽団を追われ、ロンドンに亡命しました。娘のアルマ・ロゼーは、アウシュヴィッツで亡くなっています。

参考:5年前のドイツでは 追われた楽員の多くは古参でした。1938年に職を追われた現役の楽員は、オドノポソフを除けば全員40歳以上で、半分は50歳以上です。1921年以降、楽団がユダヤ系の若い人を採っていなかったからです。空いた席には、若い楽員がまとめて入りました。演奏の水準が落ちたかどうかを、当時の楽団について確かめた資料は見つかっていません。参考になるのは、5年前のドイツの例です。1933年、ナチの政権のもとでユダヤ系の奏者が外されたあとのバイロイト音楽祭について、のちにEMIのプロデューサーとなるウォルター・レッグは、評論家としてこう書いています。「ユダヤ人の弦楽器奏者たちがいなかったら、バイロイトのオーケストラはこれまでの水準を下廻ってしまうのではないかというのが、大方の予測であった。しかし、音楽祭の間、そのような劣化を証拠だてるものはまったくなかった」(レッグ『レコードうら・おもて』河村錠一郎訳、1986年、p.44〜45)。バイロイトの管弦楽団は、ドイツ各地の楽団から奏者を集めた臨時の楽団で、ウィーン・フィルではありません。それでも、追放によって演奏の水準が目に見えて落ちたわけではない、という同じ時代の観察として挙げておきます。

参考:三つの楽団の比較

ベルリン・フィル(1933年) ウィーン・フィル(1938年) アムステルダムのコンセルトヘボウ管弦楽団(1941年)
外されたユダヤ系の楽員 4人(コンサートマスターのゴルトベルク、首席チェロ2人ほか)。ほかに「混血」とされた楽員2人 現役11人(当局の名簿)。多くは50歳以上の古参 16人(弦12、管3、ハープ1)。のちにコンサートマスターのセーケイも
それ以前の採用 1930年以降、ユダヤ系の採用なし 1921年以降、オドノポソフのほか採用なし —
外した主体 ナチ政権の下で、1935〜36年のシーズンまでに全員が去った 併合の直後に、歌劇場と楽団が ドイツの占領当局の命令(1941年4月)
命を落とした楽員 — 7人(すでに退いていた4人を含む) 3人(アウシュヴィッツ、ソビボル)
戦後 — 楽団に戻った人はいない 生き延びた14人の多くが楽団に戻った。2020年、楽団とホールが記念碑を建てた

(ベルリン・フィル:アスター『The Reich's Orchestra』p.45、p.51。コンセルトヘボウ:オランダのユダヤ人犠牲者の記録「ヨーズ・モニュメント」が引くNPOラジオ4の記事)

コンセルトヘボウで外された16人は、ウィーン・フィルの11人より多く、しかも弦の中堅が12人でした。1942年、ウィーン・フィルの委員会は、創立百年の催しに招く楽団を検討する中で、コンセルトヘボウについて「ユダヤ人が去って著しく弱くなったようだ」と議事録に記しています(トゥリュンピ)。その4年前、自分たちが同じことをした楽団の言葉です。そして戦後、コンセルトヘボウでは生き延びた楽員の多くが楽団に戻りましたが、ウィーン・フィルに戻った人はいませんでした。

楽団は何をし、何をしなかったか

公式史は、この時期の楽団について、厳しい評価と、かばう評価を並べています。

  • 楽員の中から、同僚を密告した例は一件もなかった。
  • しかし、「フィルハーモニーの内部には、どんな形の抵抗もなかった」。
  • 1938年6月の委員会の覚書は、それまでの客層が「著しくユダヤ化していた」と書いている。公式史は、これを「46の議事録の中で例外的な、人種差別的な発言」と呼んでいる。
  • 1940年の新しい規約の第3条は、会員を「ドイツ人、または同族の血のアーリア人」に限った。公式史は、その運用は「それほど極端ではなかった」と書いている。
  • 議事録に残る、解雇された同僚への手当ては、1939年10月の「ユダヤ系の年金受給者10人の年金の一括清算」だけだった。

(ヘルスベルク 第12章)

最後の点は、その後の研究で補われています。トゥリュンピによると、新しく見つかった文書から、楽団の代表イェルガーが、解雇された同僚の亡命を手助けし、元楽員5人の国外移送について、シーラッハの文化担当官に取りなしを求めていたことが分かりました。その手紙には、ティローラー、ロビツェク、シュタルクマン、グラッタウアー、シュトヴェルトカの5人の名が並んでいます。トゥリュンピは、「残念ながら、こうした取りなしは遅すぎた」と書いています(トゥリュンピ p.313〜314)。手紙に名のある5人は、いずれも上の7人に含まれています。

楽団が維持したもの

同じ時期、楽団は、協会としての存続、指揮者を選ぶ権利、財産を維持しています。

併合のあと、オーストリアにあった約11万5千の協会や団体は、解散させられるか、ほかの組織に吸収され、残ったのは約5千でした(トゥリュンピ p.289)。ウィーン・フィルは協会として残りました。公式史は、楽団が「もっとも残忍な独裁の時代に、歌劇場に対して、それまで持ったことのないほどの自立を得た」とまで書いています。1944年1月には、シーラッハが楽団長イェルガーに宛てて、「規約に定められた自立した芸術上の運営と管理は、今後もあらゆる状況で守られ、私の保護の下にある」と書面で約束しました。公式史は、こうした見かけの寛大さが楽団の中で現実を見誤らせ、1940年3月にはイェルガーが「今日、フィルハーモニーはあらゆる方面に対する力であり、孤高の高みに立っている」と言うまでになった、とも書いています(ヘルスベルク 第12章)。戦争が始まると、楽員の兵役の免除が働きかけられ、ベルリン・フィルとの扱いの差をめぐって交渉が続いています(同 p.425〜428)。

ただし、この自治は、国家から独立して守られたわけではありません。楽団の存続と権利の維持には、ナチ体制の権力者との関係が関わっていました。楽団は、ウィーンの大管区指導者で帝国総督のバルドゥール・フォン・シーラッハとの関係を大事にしました。トゥリュンピは、楽団が非公式の関係を通じてシーラッハの庇護を得ようとし、それが結果として、ゲッベルスに対する楽団の動ける幅を広げた、と見ています(同 p.434)。1942年の創立百年の年、楽団は、記念の式典や記念出版の費用を出したシーラッハを「心温かい後援者」と呼び、楽団の「名誉の指輪」とニコライ・メダルを贈りました(同 p.449)。公式史は、名誉の指輪の制度が1942年に新しく作られたことや、ほかの人への授与は書いていますが、シーラッハへの授与は記していません。

楽団は、ナチ体制の下でも協会として存続し、指揮者を選ぶ権利と財産を維持しました。その維持には、楽団の内側の自治だけでなく、シーラッハとの関係を通じて、体制の中で動ける幅を確保しようとする働きかけが関わっていました。

一方、ユダヤ系の同僚の解雇や、会員を「ドイツ人、または同族の血のアーリア人」に限る規約に対して、楽団としてそれを止めようとする抵抗があったことは、ここで確かめた資料からは言えません。個々の同僚を亡命させ、移送から救おうとしたイェルガーの働きかけは、のちに見つかった文書から明らかになっています。けれども、同僚を救おうとする行動と、排除を決めた制度そのものに抵抗することは、同じではありません。

守られたものと、守られなかった人は、同じ時期の、同じ共同体の中にありました。

4 戦後(1945年〜)

元SSの事務局長

戦後も、反ユダヤ主義が消えたわけではありません。1957年、デッカのプロデューサー、カルショーは、ハンガリー生まれのユダヤ系の指揮者ショルティとの録音のあと、「ウィーン・フィルは、その気になれば獰猛な反ユダヤ主義者となりうる。そしてこのときは、ショルティがその標的なのだった」と書いています(カルショー『Putting the Record Straight』1982年、p.153。邦訳 p.210。第3章)。

戦後、楽団は、多くの楽員と好まれた指揮者の一部が「共同体の原則と相容れない思想に屈した」代償を払った、と公式史は書きます(ヘルスベルク 第12章)。けれども、戦前とのつながりは、すぐには切れていません。

1953年ごろから、楽団の事務局長を務めたのは、トランペット奏者のヘルムート・ヴォビッシュでした。トゥリュンピによると、彼は元SS隊員で、1934年7月のナチによるクーデター未遂事件に加わり、ヒトラー・ユーゲントのウィーン支部で管楽器の指導者を務めた人物です(トゥリュンピ p.728〜729)。公式史は、事務局長に「元SS下士官、国家保安本部の保安部(SD)に属した者」を選んだことを、名前を出さずに書き、「戦後オーストリアを特徴づけた本能の鈍さ」と評しています(ヘルスベルク 第13章)。別の箇所では、録音のテープをめぐる件で、「当時の事務局長ヘルムート・ヴォビッシュ」と実名を出していますが、二つを結びつけてはいません(同 第13章)。名前のない経歴と、実名とを結びつけたのは、トゥリュンピらの研究です。

第2章で見た、日本のヤマハにウィーン式トランペットの作り直しを託し、秘蔵の楽器のベルを切り取って渡した首席奏者は、ヤマハの記事では「首席奏者のヴォービッシュ」と記されています。記事はフルネームも経歴も書いていませんが、名前と首席トランペット奏者という立場から、事務局長を務めたヘルムート・ヴォビッシュと同じ人物とみられます。そうであれば、伝統の楽器を次の世代に残すのに力を尽くした人物と、元SSの事務局長は、同じ一人の人だったことになります。公式史でも、その他の記録でも、この二つは別々の話として語られてきました。

1956年の「ゆすり」の手紙

1956年、ウィーン・フィルが初めてアメリカで演奏する前に、追放された「元の第1ヴァイオリン奏者の一人」から、何人かの楽員のナチ時代の過去を公表する、という手紙が届きました。楽団はこれを「ゆすり」の手紙と呼び、公式史の言葉で「追放された者」一人ひとりに、4,000シリングずつを支払うことを決めました(人数は書かれていません)。年金は、本人たちが亡命先で定年になってから払う、としています。公式史は、この最初の支払いが前例となって、さらに強い要求を招いたこと、のちに気持ちが落ち着いてから、総会が追放された全員にニコライ・メダルを贈ったことも書いています(ヘルスベルク 第13章)。

公式史は「ゆすり」とカギカッコ付きで書き、手紙の主の名前は出していません。トゥリュンピとシュトラッサーの回想にも、名前は見当たりません。ここで分かるのは、戦後、亡命した元楽員たちへのまとまった支払いが、少なくとも公式史の説明では、謝罪や補償の手続きとしてではなく、アメリカ公演を前にした手紙への対応として行われた、ということです。なお、「ゆすり」は楽団の側の呼び方です。手紙の中身や、その要求に根拠があったかどうかは、今回の資料からは分かりません。

指揮台に迎えた人々

アメリカから楽団がどう見られていたかは、この手紙の前からはっきりしていました。1947年、バーンスタインはウィーン・フィルへの客演を直前に取りやめています。秘書への手紙には、「楽団はまだ60%がナチで、町じゅうがそれにならっているという報告だった」とあります。伝記作家バートンは、この数字は「まずありえない」としつつ、バーンスタインが噂でためらったことを書いています(ハンフリー・バートン『レナード・バーンスタイン』1994年、p.165、p.175)。

その楽団が、指揮台では態度を変えていきます。ワルター、セル、ショルティ、バーンスタイン、マゼールら、ユダヤ系の出自を持つ主な指揮者12人の公演を5年ごとに数えると、1960〜64年の27回から、1965〜69年には88回に増え、1980年代には5年で168〜199回に達しました。アメリカの音楽誌 High Fidelity では、1965年から、ウィーン・フィルに触れた箇所の1割以上にバーンスタインの名前が並ぶようになります。アメリカでの公演が5年で20回を超えて安定するのは、その後の1985年以降です。

楽団は、1956年の旅でアメリカ市場を知り、市場が大きくなる前に、ユダヤ系の指揮者を大きく迎え入れ、そのあとでアメリカでの公演を安定させたことになります。ユダヤ系の指揮者への態度は、少なくとも指揮台の上では変わりました。それがアメリカ市場の利益を見込んだものだったと考えると、時期は合います。ただし、楽団がそのつもりで呼んだと書いた議事録などは、今回は確かめていません。そして、同じ時期にも、楽員の席は閉じたままでした。1987年、ロサンゼルス・タイムズの評論家が、楽員の名簿にユダヤ系とはっきり分かる名前がほとんど見当たらないと書いたことは、次の節で見ます(数え方は「仮説と検証」の仮説19)。

公にされるまで

1988年、楽団は、首相の求めで、投票を経ずにイスラエルでの公演を決めました。当時、オーストリアは、大統領ヴァルトハイムのナチ時代の経歴をめぐって国際的な非難を受けていました。公式史は、この公演が「平和と和解、自らの過去の克服の徴として受け止められた」と評価しています(ヘルスベルク 第13章)。

1992年、イギリスの新聞『タイムズ』が楽団の「繰り返す反ユダヤ主義」を書いたとき、公式史はこれを「事実に照らして支持できない」として退けています(同 第12章)。上で見たように、公式史自身が、マーラーの時代の溝やナチ時代の人種差別的な覚書を認めていることと並べると、この反論には緊張があります。

楽団が、外部の研究者による研究を自らのサイトに載せるのは、2013年、ニューイヤー・コンサートの直前に、ナチ時代の過去をめぐる激しい議論が起きてからでした(トゥリュンピ p.23〜24)。

5 ヨーロッパの外の奏者と、女性

戦後の楽団の門は、もう一つの面でも閉じられていました。

1972年:試験に受かった日本人の奏者

第5章で見たように、1956年の初来日から、楽団は日本で人気を得て、日本の音楽学生にも教えるようになりました。日本の奏者たちは、旅公演で出会った楽員に習うために、ウィーンへ学びに来るようになります。歴史家ペステルによると、ウィーンの楽団は、いずれ東アジアの奏者を楽員に入れるかどうかを決めなければならなくなりました。

そのとき、楽団の門番となったのは、1974年の時点で82%がオーストリア生まれだった楽員たちです。東アジアの奏者を入れないための主な理由は、「ウィーンらしさ」でした。舞台の上の楽団の見た目の均一さが「ウィーンの音」と分かちがたく結びついていると考え、「ウィーンの楽団」という看板を失うことを恐れた。その看板は、日本への旅公演と、のちのニューイヤー・コンサートの世界中継に伴う、大きな収入源でした(ペステル「Austrian World Practices」2025年、p.345〜346)。

1972年、NHK交響楽団で弾いたあとウィーンで学び続けていた日本人のヴィオラ奏者、小野崎氏が、楽団の入団試験に受かりました。シュトラッサーの回想録の日本語版の訳者あとがきは、楽団のヴィオラ奏者カール・シュティールホーフ教授の弟子である小野崎氏が、「有名なカーテンのかげの採用試験で見事に一位を得た」と書いています(シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』邦訳、訳者あとがき p.349)。ペステルによると、彼は「ウィーンの様式」にも通じていたようです。それでも楽団は、彼を受け入れませんでした。彼がニューイヤー・コンサートに出ることは考えられない、とされたからです(ペステル p.346)。

この出来事は、二つのことを示しています。一つは、ウィーンの様式は、生まれに関係なく身につけられるということ。もう一つは、それでも当時の楽団は、生まれと見た目で人を外に置いたということです。第2章で見た「人の系譜」は、技を伝える仕組みであると同時に、誰を入れるかを選ぶ仕組みでもありました。

1997年:女性の入団

楽団は長いあいだ、男性だけの集まりでした。1987年、ロサンゼルス・タイムズの評論家マーティン・バーンハイマーは、「このエリートのウィーンの男の結社は、いつになったら20世紀に加わり、女性を迎え入れるのだろうか」と書き、楽員の名簿にユダヤ系とはっきり分かる名前がほとんど見当たらないことにも触れています(同 p.342)。楽団が女性の入団を認めたのは1997年で、ペステルは、主要な交響楽団の中で「ほぼ最後」だったと書いています(同 p.346)。

時代の変化

ここから先は、時代がはっきり変わります。1997年以降、楽団は国籍、性別、そして少しだけ人種の面でも多様になりました。2018年に作られた楽団自前のアカデミーは、ヨーロッパの外の背景を持つ奏者にも、より開かれているとペステルは見ています(同 p.346)。2019年には、モスクワ生まれでパリ育ちのコンサートマスターが就任しました。2023年末の時点で、女性の団員は24人いました。そして2024年元日のニューイヤー・コンサートでは、女性のコンサートマスター、ダナイローヴァが楽団を率いています(Slipped Disc 2023年12月23日)。

門を閉じる理由として挙げられた「看板が傷む」という見立ては、その後の実績と比べることができます。女性や中東欧の人に門を開いた1997年以降も、日本での公演は5年ごとに30回前後で変わらず、アジア全体では、中国と韓国が加わって、2015〜19年には64回と倍近くに増えました。少なくとも、女性や中東欧の人を入れた範囲の多様化では、恐れられていたような収入の損は、実績からは見えません。ただし、東アジアの生まれの楽員はまだ1人しかおらず、東アジアの人を入れた場合について同じことが言えるかは、確かめられません(「仮説と検証」の仮説17)。

1972年には、試験に受かっても入れなかった。それから半世紀で、楽団の門は大きく開きました。自治のもとで閉じていた門が、同じ自治のもとで開かれていったことになります。ただし、門が開いたのが、楽団の中からの変化によるのか、外からの批判や、オーストリアのEU加盟のような社会の変化によるのかは、今回の資料だけでは切り分けられません。

6 楽器が語る歴史

最後に、楽器の話に戻ります。第2章で見たとおり、元コンサートマスターのヴェルナー・ヒンクは、1964年に入団したばかりのころ、ウィーン中心街の職人ルートヴィヒ・トレストラーから、月払いでヴァイオリンを借りていました。ヒンクによると、トレストラーの手元にあった楽器は、併合のとき、ウィーンを逃れる、あるいは収容所に送られるユダヤ人の演奏家たちが、街を去る前に託していったものでした(ヒンク語り下ろし 第2章 p.54)。

一つひとつの楽器の元の持ち主や、その後の経緯は分かりません。ただ、戦後の楽団の若い楽員が、追われた人々の残した楽器で弾き始めていた、ということは、ヒンク自身の言葉で残っています。

7 この章でわかったこと

楽団の自治は、共同体を守る力でした。マーラーの時代には、反ユダヤ主義の市当局に対して、自分たちが選んだ指揮者を立てました。ナチ時代には、ほとんどの協会が解散させられる中で、協会としての形と、指揮者を選ぶ権利と、財産を守りました。

同じ自治は、誰を共同体の内に置き、誰を外に出すかを決める力でもありました。マーラーの時代の楽員の溝、第一共和国期の1921年から1938年まで、ユダヤ系の出自の人が試験を経ない1人しか採用されなかったこと、ナチ時代に、楽団として止めようとする抵抗のないまま行われた解雇とアーリア条項。戦後も、元SSの人物が事務局長を務め、追放された人々への支払いは「ゆすり」への対応として行われました。1972年には、入団試験に受かった日本人の奏者が受け入れられず、女性が入団できるようになったのは1997年でした。そして、その門が開いていったのも、同じ自治のもとででした。

ただし、ここで示したのは、自治の権利が、守る方向にも、排除する方向にも使われたということです。その一つひとつが、総会の決定だったのか、委員会や楽団長の判断だったのか、国家の命令に従ったものだったのかは、時期によって違います。そして、この歴史は、楽団の音の特徴そのものを説明するものではありません。

ただ、第1章で見たように、1942年の記念誌は、「均一な響き」や「土壌」を、ウィーンの響きの根拠として語っていました。同じ記念誌の巻末の「ウィーンのヴァイオリン楽派」の系統図は、グリューン、ヨアヒム、半世紀以上コンサートマスターを務めたロゼー、そして記念誌が出た1942年の12月にテレージエンシュタットで亡くなる元コンサートマスターのシュトヴェルトカらの名前に印を付け、図の注で、印の付いた人は「非アーリア人」だと書いています(第2章)。楽団は、自分たちの系譜を誇る図の中で、その系譜を作ってきた人々を印で分けていました。第4章で見たように、同じ年、楽団は「古典の守り手」として語られ、その言葉は、「血と土」を重んじる当時の言説と同じ環境の中にありました。

これらの言葉が、楽団の音の説明と人の排除を直接結びつけた、とまでは、この資料からは言えません。けれども、音の独自性を出自や土地に根ざす本質として説明する語り方が、人を出自で分けて排除した時代の言葉と、無関係だったとも言えません。この連載が、音の特徴を楽員の出自で説明しない理由は、ここにあります。

公式史は、多くのことを自ら認めています。それでも、書かれなかったことがありました。そのうち、イェルガーの取りなしの手紙は、公式史が書かれたあとに見つかった文書です。一方、シーラッハへの名誉の指輪や、第一共和国期の採用の偏りは、公式史に書かれていません。元SSの事務局長については、公式史は経歴と実名を別々の箇所に書き、それを結びつけていません。こうした結びつきや、新しい史料が明らかになったのは、2008年に外部の研究者が楽団の史料を見られるようになり、その研究が公にされてからです。伝統を自分たちで語る権利は、自分たちの過去を誰が、どこまで語るかを決める力でもありました。

参考文献

このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。

  • クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
  • フリッツ・トゥリュンピ『The Political Orchestra: The Vienna and Berlin Philharmonics during the Third Reich』ケネス・クローネンバーグ英訳、University of Chicago Press、2016年(独語原著 Politisierte Orchester, 2011年)
  • オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル 前楽団長が語る半世紀の歴史』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年(原著 Und dafür wird man noch bezahlt, 1974年) リンク
  • ヴィルヘルム・イェルガー『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』Wiener Verlagsgesellschaft、1942年 リンク
  • ジョン・カルショー『Putting the Record Straight』Viking、1982年(邦訳『レコードはまっすぐに あるプロデューサーの回想』山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年) リンク
  • カール・フレッシュ『The Memoirs of Carl Flesch』(英訳)Bois de Boulogne、1973年版 リンク
  • ハンフリー・バートン『Leonard Bernstein』Doubleday、1994年 リンク
  • Friedemann Pestel, "Austrian World Practices: The Vienna Philharmonic and the Global History of Austrian Culture in the Twentieth Century", Central European History 58 (2025), pp.332–354 リンク
  • ウィーン・フィル公式サイト「Nationalsozialismus」の委託研究(オリヴァー・ラートコルプ、フリッツ・トゥリュンピ、ベルナデッテ・マイヤーホーファー、シルヴィア・カルグル/フリーデマン・ペステルほか。楽員一人ずつの伝記を含む) リンク
  • ウェルナー・ヒンク語り、小宮正安構成・訳『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』アルテスパブリッシング、2017年 リンク
  • アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『Mahler』第1巻、Gollancz、1974年(英語版) リンク
  • ミーシャ・アスター『The Reich's Orchestra: The Berlin Philharmonic 1933–1945』2010年
  • 『High Fidelity』誌(アメリカ、1951〜1989年)World Radio History の公開アーカイブ リンク
  • ノーマン・レブレヒト「Slipped Disc」(ウェブ、2007年〜) リンク
  • ウォルター・レッグ、エリーザベト・シュヴァルツコップ『レコードうら・おもて』河村錠一郎訳、1986年(原著 On and Off the Record, 1982年)
  • Joods Monument「The fate of Simon Gomperts」(NPO Radio 4 の記事を引用。コンセルトヘボウ管弦楽団の解雇された17人について) リンク

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか(この記事)
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。