シネ・イーラ ── 「怒りも贔屓もなく」(タキトゥス『年代記』1巻1節)

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「ウィーンの響き」は本当にあるのか(結)それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか

「器は残り、中身は動く」という仮説はどこまで成り立ったのか。憧れの理由には答えず、憧れを支えてきた条件を振り返ります。結びはクレンペラーの言葉で。

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか(この記事)
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

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序で、仮説を一つだけ掲げました。

器は残り、中身は動く。

ウィーン・フィルという楽団、その名前、楽員どうしが「こう鳴るべきだ」と共有する感覚は、二百年近く続いてきた。けれども、その中で鳴っている音そのもの、つまり弾き方や響きや得意な曲は、時代とともに入れ替わってきたのではないか。

六つの章を通して、この仮説がどこまで成り立ったかを振り返ります。

  1. 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたか(第1章):「ウィーンの音」は一つの主張ではありませんでした。音のまとまり、人と伝承、楽器、演奏の場、美しく弾くことへの価値判断、ウィーン以外の音楽を弾くときの違い。その語り方も、1942年の記念誌と近年のコンサートマスターとでは違っていました。
  2. 何が変わり、何が残ったか(第2章):ウィーンで学び、楽員に習う、という人の系譜には連続性がありました。けれども、ヴィブラートとポルタメントについては、求められる弾き方も、実際の弾き方についての証言も、聴き手の評価も、一様ではありませんでした。マーラーが「癖」として嫌ったポルタメントは、のちに「本物らしさ」として褒められています。
  3. 誰がその音を作り、変えてきたか(第3章):演奏の方向は、楽団が主導権を持ち、指揮者がそこにどこまで踏み込めるかの綱引きの中で決まっていました。1940年には、楽団の中堅が、伝統に教条的にしがみつく危険を仲間に語っています。
  4. 何が伝統を支え、何が選び直されたか(第4章):指揮者と曲目を自分たちで決める権利が、何を伝統に入れ、何を外すかを決めました。当時距離を置いたブルックナー、マーラー、シュトラウスは、のちに楽団の顔になりました。
  5. 名前はどう価値になったか(第5章):評判は、まず地元の客席で生まれました。それが、旅公演、録音、放送、金貨へと、使われる場面を広げていきました。その間に、「ウィーンの響き」という言葉そのものが、ナチ時代の放送の契約の条件になったこともあります。
  6. 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したか(第6章):同じ自治が、共同体を守る力にも、人を外へ出す力にもなりました。

協会と名前は受け継がれ、伝統を自分たちで決める権利も、形を変えながら保たれました。ただし、その権利は一枚岩のまま続いたわけではありません。1933年には楽団長の権限が強められ(総会は大きな決定の場として残りました)、ナチ時代には国家の権力者との関係の中で、楽団の自治が保たれていました。その一方で、弾き方、曲目、そして「伝統」として語られる中身は、時代とともに変わってきました。この連載で調べた範囲では、「器は残り、中身は動く」という仮説は、大筋で支持されたと考えます。

ただし、成り立たなかった部分もあります。中身が動いたことは示せても、それがいつ、どの程度動いたかを一本の線で描くことはできませんでした。録音を比べる方法はとらず、文章の記録に限ったからです。変化を示す証拠があることと、変化の全体像を描けたことは、同じではありません。そして、中身に「何も残らなかった」わけでもありません。ウィーンで学んだ人の系譜は、名簿の数字で確かめられる範囲で続いてきました。少ない稽古で演奏をまとめる力や、楽員のあいだで共有される音のイメージも、時代ごとに形を変えながら受け継がれてきたと考えられます。ただし、それらが同じ形のまま二百年続いたとまでは言えません。伝統についての語り方そのものが変わり、楽団の中にも伝統を改めるべきだという声があったことは、第1章と第3章で見たとおりです。

「なぜ憧れるか」には答えない

題に掲げた問い、「それでも、なぜ私たちは『ウィーンの音』に憧れるのか」には、この連載は答えません。

人がなぜあるブランドに憧れるのかを、資料から証明することはできないからです。ただ、資料から示せたことはあります。憧れを支えてきた条件が、どう生まれ、どう受け継がれてきたか、です。

  1. 限られた機会が、評判を支える:演奏会は長いあいだ少なく、定期会員の席は空き待ちになりました。1878年には、演奏会を増やすことに、コンサートマスターたちが、いまの会員の価値を損なうとして反対しています。第九は特別な機会に限られました。結果として、地元の聴衆がこの楽団を聴ける機会は限られていました。
  2. 職人の系譜を語る:地元の職人の楽器、師から弟子へ受け継がれる奏法、歌劇場で毎晩鍛えられる耳。こうした系譜は、実際にありました。同時に、繰り返し語られることで、価値の根拠にもなりました。
  3. 「本物はここだけ」と言い切る:批評家は、ウィーン・フィルのポルタメントを「本物らしい」と書きました。1942年の言葉は、楽団を「古典の守り手」と呼びました。ナチ時代の放送の契約は、「ウィーンの響き」を体得した指揮者を条件にしました。
  4. 中身は時代に合わせて入れ替える:弾き方も、曲目も、伝統として語る中身も、時代ごとに選び直されました。楽器でさえ、日本の会社の技術で作り直されています。

この四つは、どれも誰かがはじめから設計したものではありません。それぞれの時代に、それぞれの理由で選ばれたものが重なって、結果として、憧れられる形になったのだと思います。その形に、なぜ私たちが心を動かされるのか。最後の問いは、読む人に預けます。

結び

「楽器は世界中で弾かれている。だが、音楽をしているのはウィーンだけだ」。1958年、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》の稽古を終えたオットー・クレンペラーは、楽員にこう語ったといいます。

ウィーン・フィルハーモニーは、楽員が自ら指揮者を選び、曲目を決める協会として、1842年から今日まで続いてきました。帝国が崩れ、共和国が倒れ、ナチ国家に組み込まれ、戦後の占領を経ても、その形を少しずつ変えながら生き延びてきました。

この連載で見てきたとおり、今日私たちが聴く響きは、創設期のものではありません。弓の使い方も、ヴィブラートも、楽員の顔ぶれも、時代とともに入れ替わってきました。それでも私たちは、ある演奏を聴いて「これがウィーンの音だ」と言います。その理由を、数字で示すことも、言葉で定義し尽くすこともできませんでした。

ただ、「ウィーンの音」があると信じた聴衆と、それを受け継ごうとした奏者と、それを引き出そうとした指揮者がいました。その三者の関係の中で、ときにすさまじい演奏が生まれ、ときには手を抜いた演奏も重ねられてきました。その二百年近い積み重ねそのものが、「ウィーンの音」の存在を私たちに実感させているのではないでしょうか。

注:ここでいう「手を抜いた演奏」は、単に出来が悪かった演奏のことではありません。指揮者への反発や、曲や演奏への意欲の低下が、演奏の質に表れたと読める演奏のことです。楽団の内側を知る人たちの証言には、こうした話が繰り返し出てきます。ただし、個々の演奏で、反発がどこまで意図して音に持ち込まれたのかは、証言ごとに区別する必要があります。ここでは三つに分けて示します。

(1)指揮者への反発や拒否が、演奏に表れたと読める証言

  • 指揮者カール・ベームは、歌劇場と演奏会を兼ねるこの楽団は、「習慣という惰性の軌道」(シラーの詩句の引用)の中で、とくに好意を持たない指揮者や内心で拒んでいる指揮者のもとでは、演奏がある水準の下に沈むことがある、と書きました。下手な歌手の伴奏を強いられると、「不機嫌で無関心になり、自分の水準のはるか下に落ちる」とも書いています(ベーム『回想』独語原書 p.82〜83)。
  • 元コンサートマスターのヴェルナー・ヒンクは、バーンスタインがマーラーを持ち込んだころについて、楽団の側からの反発がなかったわけではない、と語っています。ヒンクによると、1972年に交響曲第5番の稽古を撮った映像には、指示どおりになかなか弾かない楽員を前に、バーンスタインが「あなたたちは本当にマーラーを演奏する気があるのか」と声を荒らげる場面が残っています(楽員の様子についての言い方はヒンクのもので、筆者は映像そのものを確かめていません)。ある楽員は、バーンスタインの前で、マーラーの作品を「クソ音楽」と呼んだともいいます(ヒンク語り下ろし 第1章 p.45)。英国の音楽誌も、この稽古の映像について、バーンスタインの表現が「仏頂面の」楽員たちに懐疑的に迎えられた、と書いています(『BBC Music Magazine』2012年)。
  • 1933年、トスカニーニが稽古でも本気で弾くことを求めたとき、楽団はそれに慣れるまで長い時間がかかりました(第3章)。

(2)疲れや意欲によって、出来が上下したことを示す証言

  • デッカのプロデューサー、ジョン・カルショーは、この楽団は、うんざりしたり、意気がそがれたり、疲れすぎたりしているときには、期待はずれの演奏をする、それがすべての要点だ、と書いています(カルショー『ニーベルングの指環』p.77)。
  • 録音でも、こんな話が残っています。1955年、ピアニストのカーゾンとクナッパーツブッシュがウィーン・フィルとベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を録音したとき、二日間、型どおりの録り直しを重ねたあと、楽員たちが楽しみに通して弾いた一回きりの演奏が、そのままレコードになりました(『High Fidelity』1955年6月号)。これは、楽員が気持ちよく弾いた一回が採られたという話で、それ以前の演奏がわざと手を抜いたものだったことまでは示しません。

(3)楽員が演奏そのものを妨げたという、もっと露骨な話

1877年、ブルックナーが自ら指揮した交響曲第3番の初演では、楽員が「わざと間違った音を弾き、勝手なパッセージを付け足した」という目撃談があります(ラ・グランジュ『マーラー』第1巻)。1886年、フーゴー・ヴォルフの《ペンテジレーア》が新作の試演にかけられたときも、楽員のあざけりが伝えられました。曲は83票中0票で退けられています。指揮者リヒターは20年後、「あざけりの笑いも、わざと歪めることもなかった」と弁明しましたが、公式史はその弁明を、ほかの証拠からも揺らぐものとしています(ヘルスベルク 第8章)。ただし、どちらも、何十年も後の回想や弁明の中で語られた話です。

注:クレンペラーの言葉は、楽員だったオットー・シュトラッサーの回想(『栄光のウィーン・フィル』邦訳 p.109)と公式史(ヘルスベルク 第11章 p.451)で伝わったもので、本人の書いたものではありません。同じころ、クレンペラーは報酬の折り合いがつかず、戦後の定期演奏会への出演を断り続けており、「私の方がもっとうまく指揮する」とも言っています(同)。褒め言葉と、商売の判断は、両立しうるものでした。

参考文献

このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。

  • クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
  • オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル 前楽団長が語る半世紀の歴史』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年(原著 Und dafür wird man noch bezahlt, 1974年) リンク
  • ヴィルヘルム・イェルガー『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』Wiener Verlagsgesellschaft、1942年 リンク
  • ジョン・カルショー『Putting the Record Straight』Viking、1982年(邦訳『レコードはまっすぐに あるプロデューサーの回想』山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年) リンク
  • ジョン・カルショー『ニーベルングの指環 録音プロデューサーの手記』黒田恭一訳、音楽之友社、1969年 リンク
  • ウェルナー・ヒンク語り、小宮正安構成・訳『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』アルテスパブリッシング、2017年 リンク
  • アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『Mahler』第1巻、Gollancz、1974年(英語版) リンク
  • 『High Fidelity』誌(アメリカ、1951〜1989年)World Radio History の公開アーカイブ リンク
  • 『BBC Music Magazine』2012年

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか(この記事)
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  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。