シネ・イーラ ── 「怒りも贔屓もなく」(タキトゥス『年代記』1巻1節)

トップ › 音楽

音楽歴史  30,723字

「ウィーンの響き」は本当にあるのか(付録)追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

1938年の併合のあと職を追われた楽員16人(殺害・迫害死7人と亡命9人)の一覧と、資料ごとの人数の違い、特別の許可で残った楽員。あわせて、楽団と反ユダヤ主義、広い意味での排斥に関わる出来事を、蔵書と研究と報道から拾って年の順に並べた年表です。

この記事の確認度:印の意味

連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表(この記事)

1938年3月の併合のあと、ウィーン・フィル(国立歌劇場の管弦楽団)では、ユダヤ系の出自の楽員、ユダヤ系の妻を持つ楽員、政治的に好ましくないとされた楽員が、職を追われました。すでに退いていた元楽員にも、迫害は及びました。本文の第6章で扱ったこの出来事を、一人ずつの表にしたのがこの付録です。あわせて、楽団と反ユダヤ主義、そして広い意味での排斥に関わる出来事を、年の順に並べた年表を付けます。

一人ずつの事実は、楽団が委嘱して公式サイトに載せている、歴史家ベルナデッテ・マイヤーホーファーの楽員の伝記によります。伝記の文章は写さず、日付と場所だけを表にしました。詳しくは、楽団の公式サイトの伝記をお読みください。人数の数え方は、資料によって違います(下の「人数について」)。

1938年に追われた楽員(殺害・迫害死と亡命)

名前 楽器 生まれ 入団 1938年3月 1938年に起きたこと その後
パウル・フィッシャー 第1ヴァイオリン 1876年 ウィーン 1899年 現役 3月23日 休職命令、7月 強制の年金生活、12月 解雇、年金の支払い停止 住まいを追われ、1942年11月4日 ウィーンのユダヤ人病院で死去(公式史は「自然死」とする)
モーリツ・グラッタウアー 第1ヴァイオリン 1870年 ウィーン 1916年 年金生活(1938年1月から) — 1942年7月14日 テレージエンシュタットへ移送、1943年2月2日 同地で死去。妻はのちにアウシュヴィッツへ
ヴィクトル・ロビツェク 第2ヴァイオリン 1877年 ウィーン 1902年 現役 3月23日 休職命令、7月 強制の年金生活、12月 解雇 1941年10月28日 ウッチ(リッツマンシュタット)のゲットーへ移送、1942年6月10日 死去。前日に楽団長イェルガーが移送の取りやめを願い出たが通らなかった
マックス・シュタルクマン 第1ヴァイオリン、ヴィオラ 1880年 ウィーン 1911年 現役 3月23日 休職命令、9月 強制の年金生活、12月 解雇 1942年10月5日 マリ・トロスチネツへ移送、10月9日 殺害
ユリウス・シュトヴェルトカ コンサートマスター 1872年 ウィーン 1902年(マーラーが試験なしで招く) 年金生活(1936年9月から。1937年とする資料もある) — 1942年8月27日 テレージエンシュタットへ移送、12月17日 同地で死去。妻はのちにアウシュヴィッツで殺害
アルミン・ティローラー 第2オーボエ 1873年 ハンガリー 1906年 年金生活(1937年1月から) — 1942年 テレージエンシュタットへ移送(8月27日、10月27日とする記述がある)、1944年10月 アウシュヴィッツへ送られ殺害
アントン・ヴァイス 第1ヴァイオリン 1875年 シュヴェヒャト 1899年 年金生活(1936年9月から。ただし楽団の事務長として活動を続けた) — 住まいを追われ、1940年12月1日 ウィーンで脳卒中のため死去
フーゴー・ブルクハウザー 首席ファゴット、楽団長(1933〜38年) 1896年 ウィーン 1919年 現役 3月12日 楽団長を解任。政治的な理由(妻はユダヤ系の振付家ヴァルマン) 1938年9月 国外へ逃れ、トロント、ニューヨーク(メトロポリタン歌劇場)へ。1982年 ニューヨークで死去。戦後、楽団の名誉の指輪、名誉会員
フリードリヒ・ジークフリート・ブクスバウム 首席チェロ 1869年 ウィーン 1900年 現役 併合の直後に職を外され、年金生活へ 1938年 ロンドンへ。ロゼー四重奏団。1948年 ロンドンで死去。戦後の復帰の誘いは実らず
ダニエル・ファルク 第2ヴァイオリン 1898年 スタニスワフ(ガリツィア) 1920年 現役 3月23日 休職命令、8月 強制の年金生活 1938年9月 スイスへ、1940年 ニューヨークへ(メトロポリタン歌劇場)。母と兄弟は殺害された。1990年 ニューヨークで死去
レオポルト・オトマール・フェーデル 第2ヴァイオリン 1892年 ウィーン 1919年 現役 妻がユダヤ系として、楽団から一時除名、9月 強制の年金生活。特別の許可の対象から外された 1939年 シカゴへ。1953年 ウィーンに戻り音楽院の教授になるが、楽団には戻らなかった。1959年 ウィーンで死去
ヨーゼフ・ゲリンガー 第1ヴァイオリン 1892年 スニャティン(ガリツィア) 1920年 現役 3月23日 休職命令、12月 解雇。11月 逮捕されダッハウ強制収容所へ、12月 釈放(イェルガーが取りなした) 1939年 ニューヨークへ(ニューオーリンズ交響楽団、メトロポリタン歌劇場)。1979年 ニューヨークで死去
リカルド・オドノポソフ コンサートマスター 1914年 ブエノスアイレス 1935年(1933年からコンサートマスター。試験なし) 現役 3月 歌劇場への立ち入りを拒まれ、「アーリア証明」を求められ、9月 契約を解かれる 1938年 ブリュッセル、ブエノスアイレス、ニューヨークへ。1956年 ウィーンに戻り音楽大学の教授。楽団には戻らなかった。2004年 ウィーンで死去
アルノルト・ロゼー コンサートマスター(1881年から) 1863年 ヤシ(ルーマニア) 1881年 現役 併合の直後に職を外される 1939年 75歳でロンドンへ。娘アルマは1944年 アウシュヴィッツで殺害、弟エドゥアルトは1943年 テレージエンシュタットで死去。戦後、楽団の復帰の誘いを断り、1946年 ロンドンで死去
ベルトルト・ザランダー 第2ヴァイオリン 1887年 ウィーン 1913年 現役 3月23日 休職命令、年金の代わりに一時金を選ぶ 1941年5月 リスボン経由でニューヨークへ。1959年 ニューヨークで死去
ルートヴィヒ・ヴィッテルス 第1ヴァイオリン 1896年 ウィーン 1919年 現役 3月23日 休職命令、年金の代わりに一時金を選ぶ 1940年2月 ジェノヴァからニューヨークへ(メトロポリタン歌劇場)。1956年 ニューヨークで死去

(出典:マイヤーホーファーによる各楽員の伝記〔ウィーン・フィル公式サイト〕、トゥリュンピ『The Political Orchestra』p.311〜315、ヘルスベルク『王たちの民主制』1992年。日付は伝記の記載による。資料の中で日付が食い違うものは併記した)

人数について

資料によって、数が少しずつ違います。違いは、誰を数えに入れるかから来ています。

項目 マイヤーホーファー(楽団サイトの研究) トゥリュンピ(2016年英語版) 公式史(ヘルスベルク 1992年)
1938年に追われた現役の楽員 13人(序論。伝記で名前の分かるのは12人) ユダヤ系の現役11人+ユダヤ系の妻を持つ楽員10人(当局の名簿) 11人
殺された、または迫害の中で亡くなった人 7人(序論は「すでに年金生活だった3人」と書くが、伝記では退いていたのは4人) 7人(うち年金生活だった元楽員4人) 6人(フィッシャーを「自然死」とする)
亡命した人 9人 9人(人種、一部は政治的な理由) 名簿で示す

マイヤーホーファーの序論の「現役13人、元楽員3人」と、伝記の「元楽員4人」の違いは、楽団の事務長として1938年も働いていたヴァイスを、現役と数えるか、年金生活と数えるかの違いとみられます(序論には説明がありません)。

入団の年が分かる16人のうち13人は、1920年より前、つまり帝国の時代に楽団に入った人でした。1920年以降に入ったのは、1920年のファルクとゲリンガー、1935年のオドノポソフの3人です。

特別の許可で残った楽員

ユダヤ系の妻を持つ楽員や「混血」とされた楽員のうち9人については、1938年8月20日、フルトヴェングラーが歌劇場の監督ケルバーに、残留のための特別の許可を求める手紙を送っています。理由として挙げたのは、楽団の芸術的な質と名声を保つことでした。トゥリュンピは、マイヤーホーファーを引いて、実際に効いたのはフルトヴェングラーよりも、当局の担当者と歌劇場の監督の働きだったとしています。名簿に載ったのは、ホルンのフライベルク、トロンボーンのハドラバ、ヴァイオリンのヘス、クラリネットのイェッテル、チェロのクロチャク、チェロのマウラー、ヴィオラのモラヴェツ、ヴィオラのリーガーらです。ティンパニのシューリヒは、許可の対象からはっきり外されました。1942年には、ユダヤ系の妻を持つクロチャクが独奏するブラームスの二重協奏曲が、そのことを理由に演目から外されています(トゥリュンピ)。

年表:反ユダヤ主義と排斥

楽団史や研究書、楽団サイトの研究、英米独の雑誌、新聞記事から、楽団と反ユダヤ主義、広い意味での排斥に関わる出来事を拾い、同じ出来事をまとめて年の順に並べました。楽団がユダヤ系の人をかばった、迎え入れた例も、対として載せています。出典を十分に確かめられなかった出来事は、ここには載せていません。日本人の奏者の件(1972年)や女性の入団(1997年)など、ユダヤ系以外の排斥は、本文の第6章と「仮説と検証」の仮説15・17で扱っています。

反ユダヤ(楽団・楽員・その周り)(47件)

年 誰が 何が起きたか 出典 本文
年不明 ヨーゼフ・ヘルメスベルガー(父) カール・フレッシュの証言として、ラグランジュは、1880年代の音楽院でヨーゼフ・ヘルメスベルガー(父)が特に嫌ったものは「ユダヤ人、近眼の人、後任のヤーコプ・グリュン」の三つだった、と書く。 Lagrange『Mahler』vol.1 第6章
年不明(19世紀) ヤーコプ・グリュン(楽団の数少ないユダヤ系楽員、コンツェルトマイスター) 楽団の数少ないユダヤ系楽員で、コンツェルトマイスターだったヤーコプ・グリュンは、反ユダヤ主義にひどく苦しんだ、とボトシュタインが書く。ただし、具体的な出来事は示されていない。 Botstein『Judentum und Modernität』p.128 —
1898-12-31〜1899-02-01 ウィーン市当局(ルエーガー市長)/楽団委員会/反ユダヤ系新聞 ウィーン市当局(ルエーガー市長)は、市庁舎の慈善コンサートで、楽団の定期指揮者マーラーを断わって指揮者モットルを指名した。楽団委員会は12月31日付の書簡で、規約を根拠にマーラーの招聘を市長に求め、反ユダヤ系の記者は「ユダヤ人らしい非ユダヤ人への憎悪」と書き、ドイチェ・ツァイトゥング紙は5本の記事で「ユダヤ人の専制」と非難した。ヘルスベルクは、ウィーン市当局を「周知の反ユダヤ的な市政」と書く。 ヘルスベルク『Demokratie der Könige』p.298;Lagrange『Mahler』vol.1、注 第6章
1899年ごろ(年の明記なし。3月27日『熊皮』初演の直前の叙述) 楽団内の反ユダヤ的な少数派と、リヒター支持派 楽団内の反ユダヤ的な少数派とリヒター支持派は、反マーラーで手を組んだ。少数派は新聞との繋がりを使って内部情報を流し、「ウィーン宮廷歌劇場のユダヤ人支配」のような煽動記事の材料にした。 ヘルスベルク p.301 第6章
1899-08-25〜秋 反ユダヤ系新聞(ドイチェ・ツァイトゥング紙ほか) 8月の楽団の指揮者選挙でマーラーが選ばれたあと、反ユダヤ系新聞(ドイチェ・ツァイトゥング紙ほか)は、マーラーは「ユダヤ人新聞の組織的な追従」のおかげで留任できたと攻撃した。ラグランジュは、マーラーの第2シーズンは「反ユダヤ系新聞が育てた憎しみの空気」の中で始まったと書く。 Lagrange『Mahler』vol.1 第3章
1899〜1900年(ボトシュタインは1899年、ラグランジュの章題は1899年12月〜1900年4月) ウィーンの聴衆・批評・楽団 ボトシュタインは、ウィーンの聴衆・批評・楽団について、マーラーがニコライ記念コンサートでベートーヴェンの第九を指揮したことが最初の本格的な衝突となり、「ユダヤ人への憎しみをさらに強めた」と書く。同化したユダヤ系批評家(ヒルシュフェルト、シェンカー)もマーラーに強く反対した。 Botstein p.143 —
1900年代初め(1902年4月への言及の前後。年は切り出しから特定できない) 反ユダヤ系新聞/楽団の会長(Obmann)シマンドル 楽団の会長(Obmann)シマンドルを「マーラー局長の手先」と書く「反ユダヤ系新聞の攻撃」が続き、シマンドルは辞任を申し出た。シマンドルは「現在の市政の下で、小学校教師である息子の経歴に傷がつく」のを恐れたのである。 ヘルスベルク p.314 —
1903-10-05 楽団の総会 楽団の総会で、定期指揮者を置くか客演指揮者にするかの採決が58対42で行われ、客演制となった。ヘルスベルクは、総会での発言の分析から「ユダヤ系と反ユダヤ系の楽員のあいだに溝ができ、それがマーラー賛成・反対の党派に現れた」と読む。 ヘルスベルク p.328-329 第6章
1905-05(のちに1918年に距離を置いたとも書かれる) フランツ・ハインリヒ(楽団の書記・事務局長、第2ヴァイオリン) 楽団の書記・事務局長で第2ヴァイオリン奏者のフランツ・ハインリヒは、指揮者モットルへの手紙で、指揮者交代を書き立てる新聞記者を「こうしたインク書生どもの曲がった鼻」と呼んだ。ヘルスベルクは「重要な立場の楽員が反ユダヤ的な傾向に導かれたことは胸が痛む」と書き、別の箇所で、ハインリヒは以前は反ユダヤ的な傾向と無縁でなく、のちに距離を置いたとも書く。 ヘルスベルク p.338-339、p.395 第6章
1920-06 楽団員の一部、委員会 楽団員の一部は、コルンゴルトの序曲《Sursum Corda》の稽古でシッシッと野次り、作曲家のコルンゴルトは作品を引き上げた。楽団の委員会の詫び状は声楽団のせいにし、野次った楽員は罰せられなかった。トゥリュンピは、これを作曲家本人と、論争の的だった批評家である父ユリウスへの反ユダヤ主義とも「理解できる」と書く。 トゥリュンピ『The Political Orchestra』 第4章
1920〜1938 楽団(入団者の構成) 楽団では、1920〜1938年に入団した50人のうち、ユダヤ系の出自の者は一人もいなかった。 トゥリュンピ 第6章
1936-10 楽団員の一部(ベルク《ヴァイオリン協奏曲》のウィーン初演。クレンペラー指揮、独奏クラスナー) ベルク《ヴァイオリン協奏曲》のウィーン初演(クレンペラー指揮、独奏クラスナー)をめぐり、ボトシュタインは、楽団員の一部がユダヤ系のクラスナーと弾かないことを提案し、終演後に楽団員は全員で舞台を去り、ローゼ、クラスナー、クレンペラーだけが残った、と書く。ヘイワースは、楽団側が前売りが悪いとして中止を求め、終演後ほとんどの奏者がこれ見よがしに舞台を去った、と書く。 Botstein p.210;Heyworth『Klemperer』前後 —
1938年より前(日付なし) 楽団内(証言=追放された団員ベルトルト・ザランダーの孫ロジャー・ザランダー、2005年)/マイヤーホーファー 追放された団員ベルトルト・ザランダーの孫ロジャー・ザランダーは2005年に、1938年より前から楽団内に「ユダヤ人」とそれ以外を分ける線があり、反ユダヤ主義者と、そうでない中間の人々がいた、と証言した。マイヤーホーファーは「併合前からこの人種的な要素が楽団内の社会的な境界を決めていた」と書き、ユダヤ系楽員の締め出しは1938年の前から始まっていた、と報道各社が伝える。 マイヤーホーファー「Vertreibung und Ermordung」;Reuters(Prodhan)、Jewish Journal 2013-03-11;AFP、Hürriyet Daily News 2013-03-10 第6章
1938-03(日付なし) ヴィルヘルム・イェルガー(臨時指導者のち楽団長) 臨時指導者のち楽団長となったヴィルヘルム・イェルガーは、ブルクハウザーに複数の証人の前で「新しい秩序の規律はダッハウで学び直せ」と脅した(ブルクハウザー1948年の記録)。カルグルとペステルは、イェルガーが「公然たるナチ的・反ユダヤ的な考えを隠さなかった」と書く。 Kargl/Pestel 約6頁 —
1938-03(併合の2日後との出典あり。ケルバーの通達は3月18日) アルノルト・ロゼー(コンツェルトマイスター、マーラーの義弟)、フリードリヒ・ブクスバウム(首席チェロ)/国立歌劇場総監督ケルバー/ナチ当局 コンツェルトマイスターでマーラーの義弟のアルノルト・ロゼーは、1881年から57年間コンサートマスターを務めたが、併合の2日後に解任され、国立歌劇場総監督ケルバーは、連邦劇場庁への報告で、「非アーリア」のソロ団員を上位の指示が来るまで演目に入れないと通達した(通達は3月18日)。ロゼーは「なぜ私は彼らと演奏できないのか。私はコンサートマスターなのに」と訴えた。プリーベルクによれば、悪名高い人名辞典ではロゼーは「ヨーゼフ・ローゼンバウム、ユダヤ人」と書かれていた。 Prieberg p.236;Botstein;トゥリュンピ;Patner の投書、The New York Review of Books 2002-02-28;マイヤーホーファー「Rose」「Buxbaum」「Vertreibung und Ermordung」 第2章
1938-03-23 国立歌劇場管理部(ケルバー)→団員7人(フィッシャー、シュタルクマン、ゲリンガー、ザランダー、ファルク、ロビツェク、ヴィッテルス) 国立歌劇場管理部(ケルバー)は、団員7人(フィッシャー、シュタルクマン、ゲリンガー、ザランダー、ファルク、ロビツェク、ヴィッテルス)に即日の「強制休職」を文書で通告した。国立歌劇場の籍を失えば自動的にウィーン・フィルからも外れる。在籍35年のロビツェクは「即時」解雇され、本人はユダヤ教の共同体を離れていたが、ユダヤ系として扱われた。 マイヤーホーファー「Vertreibung und Ermordung」「Robitsek」;Harding(The Guardian)、Raw Story 転載 2013-03-12 第6章
1938-03〜09(総数の報じ方は1938〜45年まで幅がある) 国立歌劇場管理当局・楽団(人種法による解雇) 1938年9月1日までに、国立歌劇場の管理当局のもとで、11人の現役ユダヤ系楽員が「人種的理由」で解雇され、さらに9人が「混血」「ユダヤ系との縁者」として危機にあり、連邦劇場管理局の1938年の名簿には、ユダヤ系の現役11人とユダヤ人女性と結婚している10人がいた。2013年の報道は、ユダヤ系またはユダヤ人の配偶者を持つ13人が追われ、5人が強制収容所で死亡した、と伝える。リーヴィーは、ウィーン・フィルとウィーン交響楽団が「強制的同質化」のもとでユダヤ人楽団員を追放した、と書く。 ヘルスベルク p.466;トゥリュンピ、;Prieberg p.236;リーヴィー『第三帝国の音楽』p.240;シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.151;マイヤーホーファー;Al Jazeera 2013-03-11;Haaretz 2013-03-11(Jewish Virtual Library 転載);SRF(sda)2013-03-11 第6章
1938-03〜10 リカルド・オドノポソフ(コンサートマスター、アルゼンチン国籍・父方はロシア系) コンサートマスターのリカルド・オドノポソフ(アルゼンチン国籍・父方はロシア系)は、併合直後、イタリア客演から戻ると国立歌劇場への入場を拒まれ、「アーリア証明」の提出を求められた。オドノポソフは秋にゲシュタポに聴取され、「いつまでも守れない」と告げられて10月に亡命した。 マイヤーホーファー「Vertreibung」;記憶の石の冊子(2022)頁53 第6章
1938-04〜1939-08 フーゴー・ブルクハウザー(前楽団長) 前楽団長のヒューゴ・ブルクハウザーは、ユダヤ系の妻(すでにブエノスアイレスに避難)との離婚を、4月から「反ユダヤ的な証明」で押し通そうとした。ブルクハウザーは1939年8月にも離婚訴状を添えて残留を懇願した。 マイヤーホーファー「Vertreibung」「Burghauser」 —
1938-06(年金削減の実施は7月1日) 楽団の委員会(覚書) 楽団の委員会は、ユダヤ系楽員の排除による聴衆の減少と財政難を理由に、年金受給者への措置を正当化する覚書で、「ウィーンの聴衆は強度にユダヤ化しているとみなせる」ので「聴衆を新たに育て直す」必要がある、と書いた。ヘルスベルクは、これをナチ期の議事録46冊のなかで例外的な人種主義的発言とする。6月末の委員会は、6回の特別演奏会が取り消されて年金基金が約15,000シリング不足したとして、オーストリア人楽員の年金を50%削減した(7月1日実施)。 ヘルスベルク p.約469-470;トゥリュンピ 第6章
1938-06-21〜12 国立劇場管理部(コザク)の22頁の報告書と「黒名簿」、帝国総督 国立劇場管理部(コザク)の22頁の報告書と「黒名簿」により、最初の追放に続く第三波として「ユダヤ人の姻戚」「混血」の団員の排除が迫り、特例(滞留申請)の手続きが組まれた。年金扱いにされた者も、1938年末に帝国総督の命令で事後的に解雇された。 マイヤーホーファー「Vertreibung」 —
1938-07 連邦劇場庁(国立劇場管理部)/フリードリヒ・ブクスバウム 連邦劇場庁(国立劇場管理部)は、年金と教授給の併給の特例を願い出たチェロ奏者のフリードリヒ・ブクスバウムに対し、「ユダヤ人種に属する年金受給者に特別な配慮の理由はない」として拒否した。 マイヤーホーファー「Buxbaum」 —
1938-07-14 ザルツブルク州知事アルベルト・ライッター(のち1942年に楽団のニコライ・メダルを受ける) ザルツブルク州知事アルベルト・ライッター(のち1942年に楽団のニコライ・メダルを受ける)は、前楽団長ブルクハウザーがザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルに出ているのを「政治的に容認できない」と歌劇場側に抗議し、「ハイル・ヒトラー」で結んだ。ラートコルプはライッターがブルクハウザーを音楽祭で密告したと書く。ブルクハウザーは政治的な理由に加え、ユダヤ系の妻を持っていた。 マイヤーホーファー「Vertreibung」;Rathkolb「Ehrungen」 —
1938-09-14 「外国氏族調査課」から各事業所長へ(国立劇場管理部経由で楽団にも届く) 「外国氏族調査課」は各事業所長へ、「アーリア証明」を従業員全員に取らせるよう求める通達を出し、国立劇場管理部経由で楽団にも届いた。マイヤーホーファーは、オドノポソフの事例の冒頭にこの通達を引く。 マイヤーホーファー「Vertreibung」 —
1938-09〜1942-10 国立歌劇場・国立劇場管理部・帝国音楽院、楽団(カインツら)/レオポルト・オトマール・フェーデル(2番目の妻が「ユダヤ人」)、ティンパニのシューリッヒ フェーデル(楽員のレオポルト・オトマール・フェーデル、2番目の妻が「ユダヤ人」)は申請リストから落とされ、9月1日付で永久休職となった。ティンパニ奏者のシューリッヒも落とされ、帝国音楽院に入会を拒まれたのに、楽団は代奏として使い続けたが、1942年10月に罰金500ライヒスマルク(支払いは不明)が科され、同月ついにシューリッヒを外した。マイヤーホーファーはフェーデルの件を「陰謀といじめ」の可能性と見る(1937年のブルクハウザーとの衝突)。 マイヤーホーファー「Vertreibung」「Föderl」 第6章
1938-10-28〜1940-03-07(アーリア条項入り定款) 楽団(シュトラッサーら交渉者)、帝国宣伝省(ゲッベルス) 1938年10月28日、楽団の委員会のシュトラッサーは、帝国宣伝省(ゲッベルス)側に団体の「自由化」と国立歌劇場管弦楽団の帝国管弦楽団化を求め、「大ドイツ帝国の建設に全力で協力」と申し出た。1939年6〜7月、団体存続の条件として楽団の定款に「アーリア原則」「指導者原理」を入れることが決まった。1940年3月7日の新定款の第3条は、会員を「法の定めるアーリア人、ドイツ人または同種の血」に限り、楽団側の交渉者に異議を唱えた者はいなかった。 トゥリュンピ『The Political Orchestra』;ヘルスベルク;Trümpi「Verein」 第6章
1938-11-09〜12-23 ヨーゼフ・ゲリンガー(第1ヴァイオリン)/イェルガー、秘書カインツ 第1ヴァイオリン奏者のヨーゼフ・ゲリンガーは、11月ポグロムで逮捕されダッハウへ送られ、妻の頼みで楽団長イェルガーと秘書カインツが警察のローマン・ロースに働きかけ、12月に釈放された。カルグルとペステルは「この種の介入や特別許可は、差別を原則とする体制をむしろ固めた」と評価する。戦後ゲリンガーは、イェルガーの家族に救援小包を送った。 シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.173;Rathkolb「Betriebszelle」;Kargl/Pestel 約6・33頁 —
1938-12〜1939-03(死亡は1942-11-04) 国立劇場管理部/パウル・フィッシャー(第2ヴァイオリン) 第2ヴァイオリン奏者のパウル・フィッシャーは、国立劇場管理部から1939年1月に年金の支払いが止まり、大幅減額に同意させられた。フィッシャーは、妻は「アーリア人」、息子は「第1級混血」と書いて訴えた。フィッシャーはのち住居から追われ、1942年11月4日にユダヤ病院で死亡した。 マイヤーホーファー「Fischer」 第6章
1938(月不明) 国立歌劇場/指揮者ヨーゼフ・クリップス 国立歌劇場の指揮者ヨーゼフ・クリップスは職を追われ、1945年のドイツ降伏まで食品工場で働いた。ナチはクリップスを「半ユダヤ」と扱い、人種的な理由で指揮を禁じた。 Reuters(Prodhan)、Jewish Journal 2013-03-11;Rathkolb「Neujahrskonzert」「Entnazifizierung」 —
1938年以降(名簿は1909〜1942年。2013年に発見) 楽団の後援者名簿の記載 楽団の後援者名簿(1909〜1942年、2013年に発見)では、アンシュルス以後、多数の後援者が「転出」「退去」の語で線を引かれ、創立者格は125人から4人、支援者格は246人から6人になり、寄付者は769人から472人(1938〜42)になった。多くのユダヤ系の後援者は婉曲に「abgereist IX 38(9月に出立)」と書かれた。マリアンネ・クフナーは1942年にアウシュヴィッツで殺害された。 トゥリュンピ;Rathkolb「Gründer」 —
1939-07-01(1942の追補を含む) NSDAPの地区指導者→ハドラバ(トロンボーン)/帝国音楽院・国立劇場管理部・楽団(リーガー、クロチャク) NSDAPの地区指導者は、ユダヤ人妻を持つトロンボーン奏者ハドラバを、「ユダヤ女と結婚しており…最大限の注意でのみ耐えられる」と評価した。チェロ奏者クロチャクも、妻のことで繰り返し監視された。1942年には、半ユダヤとされたリーガー(ヴィオラ)の特別許可が夏に突然却下され、クロチャクの許可も「再び取り上げられ」たが、4月にクロチャクの妻が「第1級混血」と認定されて危険が収まった。 マイヤーホーファー「Vertreibung」 —
1939-10-21 楽団の委員会 楽団の委員会は、ユダヤ系の年金受給者7人に年金1年分、女性3人に6か月分の一時金を払って済ませる、と決めた。アーリア系の年金受給者の支給は従来どおりとした。トゥリュンピは、国家ではなく委員会が差別したと指摘し、ヘルスベルクは、これを1938〜45年の議事録で唯一の「長年の同僚のための措置」の記述として書く。 トゥリュンピ;ヘルスベルク p.466 第6章
1939/40年度 楽団の会計係と出納係(決算報告) 楽団の会計係と出納係は、決算書に、ユダヤ人の排除により、社会目的の支出が前年から約4,900ライヒスマルク減り、翌年はさらに約3,000減る見込みと書いた。ラートコルプは、これを「恐ろしい非人間性」と評する。 Rathkolb「Gründer」 —
1940-12-01 アントン・ヴァイス(元事務長・第1ヴァイオリン首席、年金生活) 元事務長で第1ヴァイオリン首席のアントン・ヴァイス(年金生活)は、住居を3度追われ、強制退去が引き金で脳卒中を起こして死亡した。 マイヤーホーファー「Weiss」・3 第6章
1941-10-28〜1944-10 ナチ当局(移送・殺害)/被害者はウィーン・フィルの団員・元団員 ナチ当局は、ウィーン・フィルの団員・元団員を移送・殺害した。被害者は、ロビツェク(1941-10-28にウッチへ、1942-06-10に死亡)、グラッタウアー(1942-07-14にテレージエンシュタットへ、1943-02-02死亡)、シュトヴェルトカ(1942-08-27にテレージエンシュタットへ、12-17死亡)、シュタルクマン(1942-10-05にマリー・トロスティネツへ、10-09殺害)、ティロラー(テレージエンシュタットから1944-10にアウシュヴィッツへ、ガス室で殺害)である。ほかに、年金生活で住居を追われて死亡したヴァイス(1940)とフィッシャー(1942)がいる。 マイヤーホーファー「Vertreibung」各個人史;トゥリュンピ;Rathkolb『Paradoxe Republik』p.318;Pestel(2025)p11;ヘルスベルク 第6章
1942-01(序文の日付) ヴィルヘルム・イェルガー(著書『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』) ヴィルヘルム・イェルガーの著書『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』(序文の日付は1942年1月)は、ユダヤ人と書かずに、マーラーを「神経質、せかせか、取り乱し、知性偏重」と描き、リヒターの温かさと対比した。トゥリュンピはこれを「典型的な反ユダヤ的ステレオタイプ」と評する。 Jerger 1942 p.57;トゥリュンピ —
1942-07 イェルガー(楽団の代理指導者)、委員会 楽団の代理指導者イェルガーと委員会は、フルトヴェングラーとベームが演奏会を入れ替える機会に、ブラームスの二重協奏曲を、独奏チェロのクロチャクの「ユダヤ系の縁者」を理由に外させ、《大フーガ》に替えた。約1年後、ピアニストのコルトーの病欠で、委員会はクロチャクに頼み直して礼状まで出している。 トゥリュンピ(刷りは未確認);Trümpi「Repertoire」 —
1942(月不明) イェルガー(同書の巻末注記) イェルガーは、自著『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』の目次の頁に、デッソフ、グリュン、ハンスリック、ヨアヒム、マーラーは「非アーリア人」だという注記を載せた。 Jerger 1942 第2章
1942(月不明。1938年3月を指す語として) イェルガー(同書p.74) イェルガーは、自著『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』のp.74で、1938年3月の「歴史的な日々」に楽団に起きた「僅かな変化」と書き、解任の実態を和らげた。プリーベルクは、これを「ユダヤ人追放」を直視できなかった共犯者の言い回しと評す。 Prieberg p.236、注p.358-359 —
1942(100周年記念) 統計書の編者(カール・シュライツァー、ヘートヴィヒ・クラウス)、検閲、楽団 100周年記念出版の統計書の編者(カール・シュライツァー、ヘートヴィヒ・クラウス)は、文中に出る「非アーリア」の人物に所定の印を付け忘れ、検閲が印刷後に気づいた。そこで全部数に黄色い紙が挟まれ、『音楽におけるユダヤ人事典』(1940)によるユダヤ人・混血が一覧にされた。 ヘルスベルク p.490;Rathkolb「Ehrungen」 —
1942(100周年の準備) 楽団の議事録 楽団の議事録は、100周年に呼ぶ他団体を検討した際、コンセルトヘボウ管弦楽団について「ユダヤ人の退去で著しく弱くなったようだ」と記した。 トゥリュンピ —
戦時中(日付なし) 同僚(クラリネット奏者ルドルフ・イェッテルの経験。ザランダーの孫が伝える) 特別許可で残っていたクラリネット奏者ルドルフ・イェッテルは、同僚から「ユダヤ女と別れなければ一緒に収容所へ送る」と言われたという。ザランダーの孫の2005年の証言では、イェッテルの同僚への評は「印刷できない」ほど否定的だったともいう。 マイヤーホーファー「Vertreibung」 —
1947〜1950年代(ザルムホーファーの手紙は1948) 国立歌劇場総監督ザルムホーファー、国立劇場管理部の年金課/レオポルト・オトマール・フェーデル(亡命した楽員) 国立歌劇場総監督ザルムホーファーは、帰還を望む亡命楽員フェーデルに、配置しなければならない「東部マルク人」などを理由に仕事を出さず、帰国後の年金も基礎年数を削って84%に抑えた。フェーデルは1948年にザルムホーファーから届いた手紙を侮辱的だと感じた。マイヤーホーファーはこの一連の扱いを「責任の抑圧、中途半端な非ナチ化、亡命者敵視」の例とする。 マイヤーホーファー「Föderl」;楽団公式サイト「National Socialism」(マイヤーホーファー執筆部分) —
1950 ヴィルヘルム・イェルガー(元楽団長、妻への私信) 元楽団長ヴィルヘルム・イェルガーは、妻への私信で、亡命した音楽学者ヴィリ・ライヒについて、「ユダヤ人の盗み」「ユダヤ人の臭い鼻」と罵倒した。 Kargl/Pestel 注24(約6頁) —
1950年代中頃以降(総会の議論は1956-01-09) 楽団(総会・委員会) 亡命した元楽員が年金や援助を申請するたびに、楽団は「極端に制限的で防衛的」だった。1956年1月の総会(米国ツアー前)では、楽員の多数が米国で働く亡命者の年金請求を認めない考えで、嫉妬も表れた。ナチ期に目立った役割を果たしたイェルガーが年金を受けているという先例が議論に上がり、楽員ハドラバが全員に帰還を呼びかける案は取り上げられなかった。 トゥリュンピ、;Kargl/Pestel 約35頁 第6章
1974(回想録の刊行) オットー・シュトラッサー(元楽団長)の回想録 元楽団長オットー・シュトラッサーの回想録は、1938年の損失について「これ以上に苛酷にならなかったことを幸運に思わなくてはなるまい」と書き、ロビツェクとシュタルクマンの死は「ユダヤ人収容所に連れてゆかれ、そこで生命を落とした」と短く触れるだけである。 シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.156–157 —
1988〜(イスラエル訪問時。年は本文に明記なし) ウィーン・フィルの会長(レブレヒトが引用) ウィーン・フィルの会長は、イスラエル訪問時に「なぜこんなに多くのユダヤ人の指揮者やソリストを雇っているのか」と問われ、「ユダヤ人を雇っているのではなく、最高のミュージシャンを雇っているのです」と答えた(レブレヒトが引用)。レブレヒトは、楽団が過去の悪業に対しユダヤの人々を熱心になだめてきたと書く。 レブレヒト『巨匠神話』p.355 —

ナチとのつながりと、戦後の処理(21件)

年 誰が 何が起きたか 出典 本文
1938-03-11〜12 ヴィルヘルム・イェルガー(コントラバス、NSDAP 1932年入党・SS)、ナチ党の企業細胞(国立歌劇場)、事務長シュトラッサー コントラバス奏者でNSDAPに1932年入党・SSのヴィルヘルム・イェルガーは、党の命令書で楽団の代理指導者(委員長)に就き、ユダヤ系の妻を持つ楽団長ブルクハウザーらの旧執行部は職務停止・解任された。イェルガーの《Partita》は、ユダヤ系のワルターが定期演奏会で演奏したことがあり、のちに急進的な仲間から咎められた。事務長シュトラッサーは後年この交代を「アーリア化」と呼びつつ、イェルガーは過激派でなかったとも書く。 ヘルスベルク;トゥリュンピ;Rathkolb「Betriebszelle」;Kargl/Pestel「Ambivalente Loyalitäten」約5頁;シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.146–147 —
1938-03(併合直後) 鉤十字の腕章をつけた団員たち(亡命先の米国にいる元団員の証言、『ウィーナー・クリーア』1946-09-13) 鉤十字の腕章をつけてウィーンを歩き回っていた団員たちが、ほかの団員に「ナチ特有の傲慢と無礼」で接した、と亡命先の米国にいる元団員が1946年に証言した(『ウィーナー・クリーア』1946年9月13日付)。 Rathkolb「Betriebszelle」 —
1938-03(併合後) カール・ベーム(のちに楽団の名誉の指輪を受ける) のちに楽団の名誉の指輪を受けるカール・ベームは、併合後ウィーンに飛んで帰ると、ウィーン・フィルの聴衆を「腕を伸ばすヒトラー式敬礼」で迎え、コンサートで「ドイツの挨拶」はしないとの規則を破った。ベームは併合承認の日には「総統のこの行為を100パーセントのイエスで認められない者は、ドイツ人という名誉ある名前に値しない」と声明した。 レブレヒト『巨匠神話』p.183–184 —
1938-春〜夏(季節末の最後の定期) 事務長シュトラッサー(回想)/ナチ党幹部 事務長シュトラッサーは、季節末の最後の定期の曲目冊子に載っていた毛皮商の広告が「ユダヤ人のもの」だったことで、ナチ党幹部から叱責されたと回想する。 シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.155 —
1938(月不明) ウィーン・フィルの楽員(バークリーの描写) バークリーは、アンシュルス後のオーストリアの知識人・芸術家の協力の例として、ウィーン・フィルの楽員が鉤十字の腕章を着けて笑顔で集合写真に収まり、宣伝省のゲッベルスはウィーン訪問2回とも楽員の応対に満足したと述べた、と書く。 Berkley『Vienna and its Jews』 —
1939-12-31(出典によって1939-01-01とも) 楽団、ナチ党、ゲッベルス(ヨハン・シュトラウスのユダヤ系の血筋を隠す)、シーラッハ 楽団は、いまのニューイヤー・コンサートにつながる、シュトラウス家の作品だけの演奏会を1939年12月31日に開き、収益はナチ党の「冬季救済」に回った。ゲッベルスは1938年6月の日記で、ヨハン・シュトラウスが「8分の1ユダヤ」と分かると、公にするなと書き、洗礼簿の改竄で隠させた。2013年、ヴァルザーは、楽団サイトが「オーストリアへの崇高なオマージュ」と書いたことを、実際には併合を祝うものだったと批判した。 Rathkolb「Neujahrskonzert」;Oster、JTA 2013-01-23;Al Jazeera 2013-03-11;MacShane「The Politics of Music in Vienna」The Globalist 2025-12-30;Lebrecht「The Nazi origins of the Vienna Phil's New Year's Day concert」The Spectator 2014-12 第5章
1939-12/1940-04 ウィーン・フィル/総督ハンス・フランク ウィーン・フィルは、総督ハンス・フランクに招かれ、クラクフの「ドイツ劇場」再開の演奏会(1939-12)と総統誕生日の演奏会(1940-04)を行った。トゥリュンピは、これを「何万人もの迫害・殺害の音楽的な序曲とみなすべき」と書く。 Trümpi「Repertoire」 —
1940-08〜09 ゲハイム・フェルトポリツァイ第510群長ローマン・ロース→ウィーン・フィル ゲハイム・フェルトポリツァイ第510群長のローマン・ロースから、占領下フランスでの前線慰問演奏会の返礼として、ロースの部隊が押収したシニャック《ポール=アン=ベッサン》(ストラスブールの研究所長マルセル・コッホの所有)がウィーン・フィルに贈られた。ウィーン・フィルは同時にリスト元帥にも名誉指輪を贈っている。 Kargl/Pestel 約8頁;Slipped Disc 2016-12-12;J. The Jewish News of Northern California(JTA 転載)2014-04-18 —
1942-03-27〜30(臨時総会は3月25日) ウィーン・フィル(イェルガー)/バルドゥール・フォン・シーラッハ ウィーン・フィルは、100周年に、ウィーン総督シーラッハとザイス=インクヴァルトへ名誉の指輪、シーラッハに銀のニコライ・メダルを贈り、ライッター、ブラシュケら党・州高官にもニコライ・メダルを贈った。ヒトラーへの金のメダル「総統へ」も計画と決算にあるが、授与の実際は不明である。シーラッハは通りを「フィルハーモニカー通り」に改名し、1942年6月5日に「この町をユダヤ人のいないものにする」と演説している。 Rathkolb「Ehrungen」・5–6;Kargl/Pestel 約16頁;Al Jazeera 2013-03-11;ORF Wien 2015-12-22 第6章
1942(月不明) 楽員(現役123人) 楽員は、現役123人のうち60人がナチ党員か入党申請中で、2人がSSだった。60人のうち約2割は党が禁止されていた1938年より前に入党していた。当時の住民全体の党員率は約10%だった。 Al Jazeera 2013-03-11;Haaretz 2013-03-11(Jewish Virtual Library 転載);SRF(sda)2013-03-11 第6章
1942(月不明) ナチ党/楽団員の一部(フランツ・バルトロメイ2世) 楽団員フランツ・バルトロメイ2世は、ユダヤ人女性と結婚している画家を雇ったため密告され、楽団の党員で唯一NSDAPを除名された。1945年には、党に残っていた同僚55人と違って党員でなかったのに、戦争末期にウィーンへ戻らなかったことを理由に「野良ナチ」扱いで解雇された。 Rathkolb「Betriebszelle」「Entnazifizierung」 —
戦時中(年の明記なし) 楽団長イェルガー 楽団長イェルガーは、宣伝省側が求める現代曲の増加を定期から退け、「アーリア化された」古典・ロマン派の曲目を主張した。カルグルとペステルは、イェルガーが自作を楽団に演奏させて得もしたと書く。 Kargl/Pestel 約8頁 —
1945〜1947 連合国の非ナチ化局、暫定楽団長フリッツ・セドラック、オーストリア当局 戦後、連合国の非ナチ化局、暫定楽団長フリッツ・セドラック、オーストリア当局のもとで、楽団では4人が即時解雇され、14人が年金退職となった。連合国局は1947年6月に28人の即時解雇名簿を渡したが、オーストリア側は動かなかった。1947年1月の米軍調査で、ウィーン市民の52%が「ナチ化した」楽団のまま残すことに賛成した。 Rathkolb「Entnazifizierung」・3・7・8 —
1945年に追われ復帰(1947年説と1951年説)、事務長は1954〜68年 ヘルムート・ヴォービッシュ(トランペット、党員・SS) トランペット奏者で党員・SSのヘルムート・ヴォービッシュは、ゲシュタポに楽員を密告していたとされるが、1945年に追われたあと復帰し、事務長を務めた。非ナチ化では4人の解雇と6人の年金化にとどまり、研究者は楽団の非ナチ化は「行われなかった」とした。 SRF(sda)2013-03-11;Reuters(Prodhan)、Jewish Journal 2013-03-11;MacShane、The Globalist 2025-12-30 第6章
1948-09-30〜10-02 フルトヴェングラー/楽団(ロンドン公演)/ブクスバウム ロンドン公演で、フルトヴェングラーは、招かれていた79歳のブクスバウムに、前夜の話し合いで出演は無理だと告げ、その理由は手の震えと説明される(ヘルスベルク)。ブクスバウムは翌日リハーサルへ向かう途中、心臓発作で死去した。ブクスバウムの未亡人の年金は約6年半後、ブルーノ・ワルターの口添えでようやく通った。 マイヤーホーファー「Buxbaum」 —
1953 ヘルムート・ヴォビッシュ(SS・SD、楽団事務長に選ばれた) SS・SDに所属し、楽団事務長に選ばれたヘルムート・ヴォビッシュは、連邦大統領に「ユダヤ人の姻戚や混血が楽団に残れたのは自分のおかげ」と主張して、ナチ党関連の制裁の免除を求めた。ラートコルプは、この主張の裏づけは見つからないと書く。 Rathkolb「Ehrungen」 —
1957頃(風刺文の時期は不明) 楽団の同僚クルンプ(オーストロファシスト)、楽団総会 楽団の同僚クルンプ(オーストロファシスト)は、イェルガー(本名イェジャーベク)を茶化す風刺文を書き、「イェルガーの反ユダヤ主義も、その作曲と同じく」嘲笑の的にした。楽団の総会はクルンプの年金を、投票(32対18)で3年間停止した。 Kargl/Pestel 約4頁、約38頁 —
1962-09 楽団長オットー・シュトラッサー(元NSDAP)/総会 楽団長オットー・シュトラッサー(元NSDAP)は、イェルガー60歳の祝いで、1938〜45年を「七つの特別な年」として謝意を述べ、総会が全会一致で可決した。翌1963年には元総文化参事官シュトゥッペックにも、助けの大きさを礼状で伝えた。カルグルとペステルは「決定・責任・帰結の脱政治化」と評す。 Kargl/Pestel 約35・42頁 —
1966年または1967年(1960年代末とも。カルグルとペステルは1969年以降) 楽団の「秘密の使者」(ヴォビッシュ説=ラートコルプ・ベッテルハイム証言。イェルガー説=カルグルとペステル)/バルドゥール・フォン・シーラッハ 楽団の「秘密の使者」によって、シュパンダウから出所したバルドゥール・フォン・シーラッハに、1945年に米軍に没収された名誉の指輪の作り直しが、ミュンヘンで届けられた。この件の総会の議決記録はない。ヘルスベルクは、議事録に承認が無いので私的な行為だとみた。 Rathkolb「Ehrungen」;Kargl/Pestel 約44頁;Oster、JTA 2013-01-23;Al Jazeera 2013-03-11;ORF Wien 2015-12-22;Slipped Disc 読者コメント 2021-11-09 —
1967 楽団(125周年)/楽団長ヴァルター・バリリ 楽団(125周年)は、楽団長ヴァルター・バリリのもとで、イェルガーにフランツ・シャルク銀メダル「困難な時代の協力者へ」を全会一致で授与した。同時に、亡命者ブルクハウザーと、戦後の暫定楽団長セドラックを名誉会員にした。カルグルとペステルは、政治上の理由で名誉会員にできないイェルガーの代わりのメダルと推測する。 Kargl/Pestel 約38頁 —
1978 オットー・シュトラッサー(イェルガーの葬儀で弔辞) 元楽団長オットー・シュトラッサーは、イェルガーの葬儀の弔辞で、会報の追悼文を短くした理由を、未亡人に「1938〜45年に何かしてきた人を叩く風潮だから」と詫びた。 Kargl/Pestel 約39頁 —

かばった・迎え入れた(13件)

年 誰が 何が起きたか 出典 本文
1933-12〜1935年初め クレメンス・クラウス(国立歌劇場総監督)、リカルド・オドノポソフ(ロシア系ユダヤ系のヴァイオリニスト) 国立歌劇場の総監督クレメンス・クラウスの庇護で、ロシア系ユダヤ系のヴァイオリニスト、リカルド・オドノポソフが、オーディションなしにコンツェルトマイスターに就いた(正式な楽団員は1935年9月1日)。オドノポソフは陰謀に苦しみ、クラウスがベルリンに移る1935年初めまで守られた。ヘルスベルクは、クラウスを「ユダヤ系やその縁者を雇い、あらゆる機会に彼らのために尽くした唯一の主要な歌劇場総監督」と引く。 トゥリュンピ;ヘルスベルク p.436-437 第6章
1938-03 国立歌劇場総監督ケルバー/事務長シュトラッサー(回想) 国立歌劇場総監督ケルバーは、ロゼーと首席チェロのブクスバウムを事務室に呼び、数十年の功に礼を言って退職を告げた。事務長シュトラッサーは回想で、「当時は『非アーリア人』に感謝を示すこと自体が党の方針にぶつかった」と書く。 シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.148;マイヤーホーファー「Buxbaum」 —
1938-04〜08 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、国立歌劇場総監督ケルバー、官僚コザク、事務長シュトラッサー フルトヴェングラーは、楽団の依頼(4月初めに事務長シュトラッサーがベルリンを訪問)を受け、危機にある楽員のため「特別許可」を国立歌劇場総監督ケルバー宛に申請した(8月20日付)。理由は「楽団の芸術的質・地位・名声の維持」で、対象は、ヘス、リーガー、モラヴェッツ、クロチャク、マウラー、イェッテル、ブルクハウザー、フライベルク、ハドラバの9人である。フェーデルとシューリッヒは申請から外れた。 ヘルスベルク p.466;Prieberg;トゥリュンピ;マイヤーホーファー「Vertreibung」;シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.151 第6章
1939-40年のシーズン ヴォルフガング・シュナイダーハン(コンツェルトマイスター)とその四重奏団、事務長シュトラッサー、フルトヴェングラー コンツェルトマイスターのヴォルフガング・シュナイダーハンの四重奏団は、ヴィオラ(モラヴェッツ)とチェロ(クロチャク)が特別許可でユダヤ人姻戚として残留していることを承知で結成され、演奏の質が優先されたと回想されている。党から呼び出されて「重い負荷」と指摘されたシュナイダーハンは、「四重奏団はいつでも捨てるが、モラヴェッツとクロチャクは決して捨てない」と答えた。フルトヴェングラーがモラヴェッツとクロチャクのために断固として立った、と注記されている。 シュナイダーハン評伝『Cantabile』p.115、p.331;シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル』p.171;Kargl/Pestel 約7頁 —
1941-10-23〜28 楽団長イェルガー、秘書カインツ→バルドゥール・フォン・シーラッハの側近ヴァルター・トーマス 楽団長イェルガーと秘書カインツは、バルドゥール・フォン・シーラッハの側近ヴァルター・トーマスに、ロビツェク、ティロラー、シュタルクマン、グラッタウアー、シュトヴェルトカの5人の移送を避けるよう嘆願したが(ロビツェクは移送前日の10月27日にも)、いずれも通らなかった。トゥリュンピは「遅すぎた」と書く。ロビツェク夫妻はウッチへ送られ、ロビツェクは1942年6月に殺害された。 トゥリュンピ;Rathkolb「Betriebszelle」;Kargl/Pestel 約7頁;Harding(The Guardian)、Raw Story 転載 2013-03-12 第6章
1942〜45(1945年10月の証言) トランペット奏者フランツ・デングラー トランペット奏者のフランツ・デングラーは、16年間ユダヤ人女性と事実婚をしていた。デングラーが党員だったのはユダヤ人女性を守るためで、1942/43年に潜伏した女性を支えたと、1945年10月に女性本人が証言した。 Rathkolb「Betriebszelle」 —
戦時中(日付なし) カール・ヨハニス(第2ヴァイオリン首席) 第2ヴァイオリン首席のカール・ヨハニスは、ウィーンでのユダヤ人移送に動揺し、ユダヤ人の生徒も教えていた。ヨハニスはゲシュタポの圧力で、米国の出版社(ユダヤ系の発行人)との接触を絶たされた。以上は娘が伝える家族の言葉である。 Kargl/Pestel 約18頁(概数) —
1944-06-11(シュトラウス80歳の祝い) バルドゥール・フォン・シーラッハ、イェルガー、ベーム バルドゥール・フォン・シーラッハは、ウィーンのシュトラウス邸で、「ユダヤ人の義理の娘」アリスの手に接吻し、ボルマンに伝わって騒ぎになった。1969年、シーラッハはこの場面を引いて、イェルガー宛に「当時は勇気が要った」と書いた。 Kargl/Pestel 約1・29頁 —
1938〜1945(戦後の証言) イェルガー(楽団長)の遺品の弁明書、クロチャクとモラヴェッツの妻、息子ファイト イェルガー(楽団長)の遺品には、約12通の弁明書・免責書が残る。クロチャクとモラヴェッツの妻は、イェルガーの介入で特別許可が延び、出演禁止や移送が避けられたと証言する。イェルガーの息子ファイトは、カルテンブルンナーの「まだユダヤ人をかばうなら次はお前だ」という言葉を伝えるが、裏づけはない。 Kargl/Pestel 約7頁 第6章
1945-10/1946-01-01 ヨーゼフ・クリップス(ナチ期に「半ユダヤ」として上演禁止) ヨーゼフ・クリップス(ナチ期に「半ユダヤ」として上演禁止)は、1945年10月のウィーン・フィルの演奏会再開を指揮し、1946年1月1日には「平和下で最初のニューイヤー・コンサート」を指揮した。 Rathkolb「Neujahrskonzert」「Entnazifizierung」;レブレヒト『巨匠神話』 第4章
1961-11-25/1963-05 楽団 楽団は、亡命者のゲリンガーとブルクハウザー(1961-11-25)、ファルク(1963-05)に名誉の指輪を贈った。 Rathkolb「Ehrungen」・9 —
1966〜1990 レナード・バーンスタイン、楽団 24年にわたる共演で、ウィーン・フィルはレナード・バーンスタインを名誉会員にした(ヘルスベルクの写真注記)。バーンスタインはウィーン・フィルを三つの愛する楽団の「圧勝」に挙げた。 ヘルスベルク、(写真注記、刷り607);Burton —
1967-06(六日戦争の直後) バーンスタイン、ウィーン・フィル、独唱者ヒルデ・ギューデン、クリスタ・ルートヴィヒ バーンスタインがマーラーの《復活》を指揮して出演料をイスラエルに寄付し、二人の独唱者(ヒルデ・ギューデン、クリスタ・ルートヴィヒ)とウィーン・フィルも続いた。 Burton;レブレヒト『巨匠神話』p.329 —

外からの批判(13件)

年 誰が 何が起きたか 出典 本文
世紀転換期(年の明記なし) ブルーノ・ワルター ヘルスベルクは、若いブルーノ・ワルターが、ウィーンの楽団に「少なくとも紙の上では、とてつもない」反ユダヤ主義を見て取った、と引く。 ヘルスベルク p.338-339 第6章
1938〜1945 トゥリュンピ トゥリュンピは、1938〜1945年について、ウィーンはベルリンより解雇・強制引退の人数が数倍多く(ただし元のユダヤ系も多かった)、七人が死亡した、と書く。ウィーン・フィルは国家の直接統制が弱かったのに、「反ユダヤ主義と曲目では自分から」ナチの方針に合わせた。党員は1938年に約36%、のちに約50%でベルリンの2倍以上であり、男性だけの結社という構造がドイツ民族主義と反ユダヤ主義を助長した、とトゥリュンピは書く。 トゥリュンピ、 第6章
1938〜1945(レブレヒトの記述) ウィーン・フィルの団員(レブレヒト) レブレヒトは、デッカの競争相手がスイスのユダヤ教徒モーリス・ローゼンガルテンを通じてウィーン・フィルと契約した際、ウィーン・フィルの奏者の何人かは鉤十字の腕章をつけ、仲間六人が強制収容所へ送られるのを見届けた、と書く。 レブレヒト『巨匠神話』p.171 —
1946 ブロニスラフ・フーベルマン(ヴァイオリニスト)/米国でのウィーン・フィル批判 ヴァイオリニストのブロニスラフ・フーベルマンは「最後のナチがウィーンの音楽界から消えるまでウィーンに戻らない」と表明した。米国ではウィーン・フィルの党員の多さが批判された。 Rathkolb「Entnazifizierung」 —
1947-05 レナード・バーンスタイン(楽団の側ではなく、予定を取りやめた側) レナード・バーンスタインは、直前にオーストリア行きとウィーン・フィル客演の予定を取りやめた。バーンスタインは秘書への手紙に、ウィーン・フィルは「まだ60%がナチで、街全体がそうだ」という報告だった、と書いた。バートンは、60%は「非常にありそうにない数字」と注記する。 Burton『Leonard Bernstein』p.165、;Tablet 2018(本文が開けず、検索結果の引用);ORF Wien 2018-10-18 第6章
1947-09 フリードリヒ・ブクスバウム(亡命したチェロ奏者) 亡命したチェロ奏者のフリードリヒ・ブクスバウムは、ロンドンで楽団と再会し、「みんなの調弦を聴いた。実に純粋な音だった。まったくユダヤ人抜きの音だ」と皮肉った。 マイヤーホーファー「Buxbaum」・8 —
1960年代〜 ウィーン・フィルの公式見解(レブレヒトが引用)/レブレヒト ウィーン・フィルの公式見解は「マーラーはユダヤ人として感じるままに作曲した。バーンスタインが語りかけるとき、彼は音楽家として、そしてユダヤ人として実に説得力がある」というもので、レブレヒトが引いている。レブレヒトは、バーンスタインが楽団にマーラーを教えたという「神話」を、楽団の戦前からの演奏録音で反証している。 レブレヒト『巨匠神話』p.338、 第3章
1960年代 ジョン・マウチェリ(バーンスタインの助手)の推測 バーンスタインの助手ジョン・マウチェリは、ウィーンがバーンスタインへの愛を宣言したことは、「ウィーン・フィルが反ユダヤ主義とは無縁だという『証拠』」だったのかもしれない、と推測する(確定ではない)。 マウチェリ『指揮者は何を考えているか』 —
1966 バーンスタインと楽員 1966年にバーンスタインが初めてウィーン・フィルと組んだころ、楽員にはまだ元ナチが多かった。バーンスタインは両親への手紙に「元ナチの多くと付き合うことになる」「急にユダヤ人であることがしゃれたことになった」と書き、芳名帳に「シャツを着たユダヤ人(Jude im Hemd)」と記した。 ORF Wien 2018-10-18;Falter 43/2018(2018-10-23) —
1987-03-17 マーティン・バーンハイマー(ロサンゼルス・タイムズ。ユダヤ系亡命者) ロサンゼルス・タイムズのユダヤ系亡命者マーティン・バーンハイマーは、ヴァルトハイム問題のさなか、楽団に女性がいないこと、団員名簿に「明らかにユダヤ系の名がほとんど無い」ことを批判した。 Pestel(2025)Central European History p11(刷り342) 第6章
1988 ザルツブルク音楽祭《モーゼとアロン》(ポネル演出)/ジェイムズ・レヴァイン指揮ウィーン・フィル ザルツブルク音楽祭の《モーゼとアロン》(ポネル演出、ジェイムズ・レヴァイン指揮、ウィーン・フィル)で、黄色い星をつけたユダヤ人が金の子牛を拝む演出を、英国人の観察者が「ワルトハイム大統領のオーストリアでは不穏当」と評した。レブレヒトは、これがユダヤ人は金銭に関心があるという通念を補強したと書きつつ、反ユダヤ主義的な意図はなかったとする。ウィーン・フィルはレヴァインの指揮下で演奏した。 レブレヒト『巨匠神話』p.353–354 —
1992-03-25(ヘルスベルクの反論は同年) ロンドン・タイムズ/ヘルスベルク(楽団の会長・史料室長) ロンドン・タイムズは、150周年に「この楽団が一部の人に憎まれる暗い理由は、歴史に繰り返し現れる反ユダヤ主義だ」と書いた。楽団の会長・史料室長ヘルスベルクは、事実に照らして「支持できない」と退けた。1992年の反論でヘルスベルクは、デッソフ(ユダヤ系の出自で15年間楽団のトップにいたが、楽員の逸脱は一度も無かった)、ワルター、オイストラフ、バーンスタインとの「申し分のない関係」を挙げた。 ヘルスベルク p.502、注139、p.328-329 第6章
1992 クレメンス・ヘルスベルク(創立150年の公式史『Demokratie der Könige』) クレメンス・ヘルスベルクの創立150年の公式史『Demokratie der Könige』は、1942年の指輪の件など不都合な事実を多く載せなかった。ヘルスベルクは後に、当時は資料をすべて見られなかったと説明した。 Reuters(Prodhan)、Jewish Journal 2013-03-11;AFP、Hürriyet Daily News 2013-03-10;MacShane、The Globalist 2025-12-30 第6章

公開・謝罪・追悼(12件)

年 誰が 何が起きたか 出典 本文
1946-03 暫定楽団長セドラックの記者会見/強制収容所の生還者ルドルフ・カルマーの論説 暫定楽団長セドラックは記者会見で、「全員が新しいオーストリアを認め、過去を厳しく退ける」と表明し、1938年以降のナチズムの犠牲になった元同僚の遺族のための演奏会を予告した。強制収容所の生還者ルドルフ・カルマーは論説で、寛大な処分を求め、楽団に「誤りの率直な告白」を求めた。 Rathkolb「Entnazifizierung」 —
1946-10(ロゼーへの誘いは戦後、時期不明) 楽団(委員会)→亡命した元団員(ブクスバウム、ゲリンガー、ロゼーほか) 楽団(委員会)は、亡命した元団員(ブクスバウム、ゲリンガー、ロゼーほか)に公式の帰還要請を出し、「不当に追われた席へ戻ってほしい」「加えた不正のごく一部でも償う機会を」と呼びかけた。ロゼーにも戦後に復帰の誘いがあったが、ロゼーは断った(1946年にロンドンで死去)。カルグルとペステルによれば、誰も戻らなかった。 マイヤーホーファー「Buxbaum」「Rose」;Kargl/Pestel 約33頁;Bratby、The Spectator Australia 2026-09-05 —
1988(9月13日にテルアビブ公演) ウィーン・フィル、バーンスタイン、オーストリア政府 オーストリア政府が特別に補助して、ウィーン・フィルはバーンスタインの指揮で初のイスラエル公演(マーラー第6番)を行い、ナチの犠牲者のために6本の木を植えた。アンシュルス50年の記念年に、オーストリアが過去を認めることをユダヤ人聴衆と世界のユダヤ人団体に示す政治的な期待があった。レブレヒトは、楽団がユダヤ人世界の承認を望んでいたと分析し、これを楽団の「道徳的修復」と呼ぶ。 Pestel p12(刷り343);レブレヒト『巨匠神話』p.336;楽団公式アーカイブ「Konzert in Tel Aviv」 第6章
1992 楽団(150周年の公式年史) 楽団は、150周年の公式年史に、「殺された・追放された・迫害された」楽員への追悼として、章末に「Memento」を載せ、犠牲者の経歴を並べた。ラートコルプは、1992年の演奏会で、殺害・迫害死した6人、亡命した10人ほど、特別許可で働いた9人を楽団が想い起こした、と書く。 ヘルスベルク p.502、;Rathkolb p.317-318 第6章
2000-05-07 ウィーン・フィル(指揮:ラトル) ホロコースト生存者レオン・ツェルマンの企画で、ウィーン・フィル(指揮:ラトル)は、マウトハウゼン強制収容所跡の採石場で、解放55年の追悼として第九を演奏した。事前に「屠殺場は演奏会場ではない」など激しい抗議があった。大統領クレスティルは演説でオーストリア人の関与に「怒りと憤り」を述べた。 Spiegel 2000-05-08「Gedenkfeier in Mauthausen: Stille nach dem Götterfunken」 —
2003〜2014 楽団(会長・史料室長ヘルスベルク、のち楽団)/外部研究者フリッツ・トゥリュンピ 2003年、楽団(会長・史料室長ヘルスベルク)は、外部研究者フリッツ・トゥリュンピのナチ時代研究のための史料室閲覧を、議事録に「個人的な問題や内輪の議論」が多いとして断った(許されるまで約3年)。2008年の展覧会をめぐって公開の是非が議論になり、2013年のニューイヤー直前に始まった政治的な議論を経て、楽団は外部研究班(トゥリュンピ、マイヤーホーファー、ラートコルプ)の成果を公式サイトに載せることにした。2014年にトゥリュンピとマイヤーホーファーの追放楽員の研究書が出た。 トゥリュンピ;AFP、Hürriyet Daily News 2013-03-10 第6章
2012-12〜2013-01-22 緑の党/楽団 緑の党が12月に調査委員会を求め、楽団はいったん断った。続いて1月22日に、楽団はラートコルプ・トゥリュンピ・マイヤーホーファーの3人に調査を頼んだ。ORFはきっかけを、1942年のザイス=インクヴァルトへの指輪授与の件としている。 ORF Wien 2013-01-18;JTA 2013-01-23 第6章
2013-03-10 楽団・外部研究者3人(ラートコルプ、トゥリュンピ、マイヤーホーファー) 楽団は、外部研究者3人(ラートコルプ、トゥリュンピ、マイヤーホーファー)の成果として、ナチ時代の研究、指輪・メダルの受賞者一覧、追われた楽員の伝記を初めて公開した。ヴァルザーは「小さな一歩」と評し、文書庫への接近はまだ足りないと言った。Falter はラートコルプへのインタビューを載せた(聞き手はバルバラ・トート)。 Al Jazeera 2013-03-11;Harding(The Guardian)、Raw Story 転載 2013-03-12;Tóth、Falter 11/2013(2013-03-13) 第6章
2013-10-23(議決)、2013-12-20〜22(報道) 楽団総会(理事長ヘルスベルクの提案) 楽団の総会は、理事長ヘルスベルクの提案で、シーラッハ、ザイス=インクヴァルトら6人から、名誉の指輪とニコライ・メダルを全会一致で剥奪したが、発表はせず、12月にAPが報じた。ヴァルザーは「秘密作戦」と批判した。ヒトラーへの授与を計画していたことも公表された。 George Jahn(AP)、The Times of Israel 2013-12-21;ORF Wien 2013-12-22;Oestreich、NYT 2013-12-22(symphony.org の要約による);Rathkolb「Ehrungen」;Slipped Disc 2013-12-21 —
2014-04-12(返還の発表)〜2016-12-09/12(返還の完了) 楽団(理事長アンドレアス・グロースバウアー) 楽団(理事長アンドレアス・グロースバウアー)は、2014年4月、シニャック《ポール=アン=ベッサン》を、マルセル・コッホの相続人に返すと発表し、ヘルスベルクは「It was really a moral problem」と述べた。楽団は2016年12月に返還を完了し、経緯を声明で公表した。グロースバウアーは2014年9月の就任後、返還を優先課題としたという。 J. The Jewish News of Northern California(JTA 転載)2014-04-18;Slipped Disc 2016-12-12 一部
2015-12-22 シルヴィア・カルグル、フリーデマン・ペステル(楽団の委託)/Slipped Disc シルヴィア・カルグルとフリーデマン・ペステルは、楽団の委託で、論文「Ambivalente Loyalitäten」(1938〜1970年)を楽団サイトで公開した(55頁)。論文は、楽団はナチの権力者と積極的に協力しており、1945年以後の「楽団は執行部のコネで救われた」という語りは一面的だと結論した。論文は、1945年は「零時」ではなく、個々の「介入」と「特別許可」は、人種的・イデオロギー的な独裁体制の通常運用をかえって支えたとする。 ORF Wien「Philharmoniker: Lange ‚Loyalität' zu NS-Regime」2015-12-22;Kargl/Pestel 約48頁;Slipped Disc 2015-12-23 —
2022-02-17(追悼式)、2023-03-28(ロゼーの旧宅前) ウィーン・フィル(理事長ダニエル・フロシャウアー) ウィーン・フィル(理事長ダニエル・フロシャウアー)は、追放・殺害・迫害された団員と団員の家族の旧住居の前に「記憶の石」を設置し、楽団180周年に追悼式(2022-02-17、楽友協会)を行い、17人(家族のアルマ・ロゼを含む)の経歴を冊子にした。2023年の創立記念日には、ウィーン・フィルはロゼーの旧宅(ペルカーガッセ23番地)の前で追悼式を開いた。 記憶の石の冊子(2022)頁4(フロシャウアー序文)、頁6(ラートコルプ序文);楽団公式マガジン 2022-02-17;APA/vienna.at 2023-03-28 —

反ユダヤ以外の排斥(1件)

年 誰が 何が起きたか 出典 本文
1996-02-13 楽員ヘルムート・ツェーエトナー(ページ上の綴りは Zaertner)、社会学者ローラント・ギルトラー(同 Goettler)ほか 西ドイツの公共放送の番組で、楽員ヘルムート・ツェーエトナーは、「白い肌の男が白い肌の男の作曲家の曲だけを弾く」と述べ、それを「人種差別的・性差別的な違和感」と呼んで、受け入れる価値があるとした。社会学者ローラント・ギルトラーは「日本人なども決して採らない」と言い、続けて「人種差別ではない」と述べた。 Traister(ペンシルベニア大)による放送の書き起こしと英訳;R. Levine、Polyphonic Archive(イーストマン音楽学校)2010-03-10 —

参考文献

このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。

  • クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
  • フリッツ・トゥリュンピ『The Political Orchestra: The Vienna and Berlin Philharmonics during the Third Reich』ケネス・クローネンバーグ英訳、University of Chicago Press、2016年(独語原著 Politisierte Orchester, 2011年)
  • オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル 前楽団長が語る半世紀の歴史』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年(原著 Und dafür wird man noch bezahlt, 1974年) リンク
  • ヴィルヘルム・イェルガー『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』Wiener Verlagsgesellschaft、1942年 リンク
  • ジョン・カルショー『Putting the Record Straight』Viking、1982年(邦訳『レコードはまっすぐに あるプロデューサーの回想』山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年) リンク
  • ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか』河津一哉・横佩道彦訳、文藝春秋、1996年 リンク
  • カール・フレッシュ『The Memoirs of Carl Flesch』(英訳)Bois de Boulogne、1973年版 リンク
  • ハンフリー・バートン『Leonard Bernstein』Doubleday、1994年 リンク
  • Friedemann Pestel, "Austrian World Practices: The Vienna Philharmonic and the Global History of Austrian Culture in the Twentieth Century", Central European History 58 (2025), pp.332–354 リンク
  • ウィーン・フィル公式サイト「Nationalsozialismus」の委託研究(オリヴァー・ラートコルプ、フリッツ・トゥリュンピ、ベルナデッテ・マイヤーホーファー、シルヴィア・カルグル/フリーデマン・ペステルほか。楽員一人ずつの伝記を含む) リンク
  • アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『Mahler』第1巻、Gollancz、1974年(英語版) リンク
  • レオン・ボトシュタイン『Judentum und Modernität』Böhlau、1991年 リンク
  • フレート・K・プリーベルク『Trial of Strength: Wilhelm Furtwängler and the Third Reich』英訳1991年
  • ジョージ・E・バークリー『Vienna and Its Jews: The Tragedy of Success, 1880s–1980s』Abt Books/Madison Books、1988年 リンク
  • ピーター・ヘイワース『Otto Klemperer: His Life and Times』第2巻、1996年
  • エリック・リーヴィー『第三帝国の音楽』望田幸男監訳、名古屋大学出版会、2000年
  • 『Cantabile: Wolfgang Schneiderhan, Irmgard Seefried』1991年 リンク
  • ノーマン・レブレヒト「Slipped Disc」(ウェブ、2007年〜) リンク
  • 『Der Spiegel』誌の記事アーカイブ リンク

← 前の記事:検証 仮説を立て、データで確かめる

連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表(この記事)

見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。