ウィーン・フィルの師弟の系図 ヴァイオリンとホルン
ウィーン・フィルの音は、師から弟子へ受け継がれてきたと語られます。楽員名簿と略歴から、ヴァイオリンとホルンの師弟の線を引きました。ヴァイオリンでは、1942年の楽団史が付けた「非アーリア人」の印と、その系図に描かれなかった幹が、今のコンサートマスターにつながります。ホルンでは、今の楽員10人のうち9人が一人の先生の門下にたどり着き、その門下には、ナチ党の細胞を作った奏者と、「混血」として特別許可でしか残れなかった首席がいました。
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ウィーン・フィルの音は、師から弟子へ受け継がれてきたと語られます。楽員名簿と略歴から、ヴァイオリンとホルンの師弟の線を引きました。ヴァイオリンでは、1942年の楽団史が付けた「非アーリア人」の印と、その系図に描かれなかった幹が、今のコンサートマスターにつながります。ホルンでは、今の楽員10人のうち9人が一人の先生の門下にたどり着き、その門下には、ナチ党の細胞を作った奏者と、「混血」として特別許可でしか残れなかった首席がいました。
1920年前後、若いフルトヴェングラーはウィーン・フィルの弦楽器を借りて自分の楽団に弾かせ、響きはかえって鈍くなりました。この逸話を手がかりに、「ウィーンの音」とは何なのかを、手元の資料で確かめていく連載の序です。仮説は一つ、「器は残り、中身は動く」。
1942年の記念誌、指揮者、プロデューサー、作家、そして近年のコンサートマスター4人の言葉を並べると、「ウィーンの音」は一つの主張ではありませんでした。音のまとまり、人と伝承、楽器、演奏の場、美しく弾くことへの価値判断。語り方の違いを整理します。
「世代を超えて均一な奏法がある」という説を、ヴィブラートとポルタメントの記録で確かめます。1922年の入団試験、マーラーが嫌った「絶え間ないポルタメント」、戦後の批評の割れ方。そして、楽団で鳴ってきた楽器の来歴をコラムで。
稽古の量、指揮者を受け入れるか拒むか。マーラー、リヒャルト・シュトラウス、トスカニーニ、マゼール、シャイー、ショルティとの場面と、1940年にベルリン・フィルを聴いた翌日の委員会の議事録から、楽団と指揮者の綱引きを見ます。
指揮者と曲目を自分たちで決める権利は、何を伝統に入れ、何を外したのか。1842年の取り決め、第九の扱い、新作の試演、1942年の「古典の守り手」という言葉、そして楽団が当時距離を置いたブルックナー、マーラー、シュトラウスのその後。存命作曲家の割合を1842年から数え直しました。
評判は旅公演より先に地元の客席で生まれていました。1848年の「世界最高の楽団」、空き待ち600人、1920年代の換金、ニューイヤー・コンサートの起点をめぐる公式史と研究者の対立、放送の契約に書かれた「ウィーンの響き」、そして金貨と名器の取り決め。
同じ自治が、共同体を守る力にも、人を外へ出す力にもなりました。マーラーの時代の楽団の溝、第一共和国期の採用、ナチ時代の解雇と殺害、シーラッハとの関係、戦後の元SSの事務局長と1956年の手紙。公式史と外部の研究を並べて確かめます。
「器は残り、中身は動く」という仮説はどこまで成り立ったのか。憧れの理由には答えず、憧れを支えてきた条件を振り返ります。結びはクレンペラーの言葉で。
1938年の併合のあと職を追われた楽員16人(殺害・迫害死7人と亡命9人)の一覧と、資料ごとの人数の違い、特別の許可で残った楽員。あわせて、楽団と反ユダヤ主義、広い意味での排斥に関わる出来事を、蔵書と研究と報道から拾って年の順に並べた年表です。
連載の各章から立てた26の仮説を、演奏記録、楽員の名簿、歴代首席の台帳、英米の音楽誌の全文で確かめました。指揮台の入れ替わり、存命の作曲家の「在庫」、音楽事務所、コンサートマスターの門、楽員の国際化の段階、排除の理屈と公演の実績。支持されたものも、崩れたものも並べます。
ウィーン・フィル(1842年〜)とN響(1926年〜)の公式の演奏記録から、定期公演の曲目と指揮者を10年ごとに調べた一次調査。定期公演の曲目の似方は1970年代から順位相関0.6台で安定。両楽団ともベートーヴェンとモーツァルトが柱で、ワーグナーはN響、ブルックナーはウィーン・フィルで多い。N響で最も多く演奏された作曲家はベートーヴェン(全公演の12.4%)、曲は交響曲第9番(459回)。外国人指揮者の割合は2000年代の81.9%が最大。
ウィーン・フィルが守ろうとしたものを、楽団長シュトラッサー、コンサートマスターのヒンクとキュッヒル、カルショー、レッグ、ホフマン『ウィーン』の証言と、公式コンサート・アーカイブ10,768公演の集計から追った調査。ナチの音楽政策と1938年の追放、ハリウッドへ渡った作曲家、カラヤン・ベーム・クリップス・バーンスタイン、戦後の沈黙と2013年の公表、ウィーン生まれのコンサートマスターの時代まで。APPENDIXに指揮者・曲・国の回数表と資料一覧。