シネ・イーラ ── 「怒りも贔屓もなく」(タキトゥス『年代記』1巻1節)

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「ウィーンの響き」は本当にあるのか(検証)仮説を立て、データで確かめる

連載の各章から立てた26の仮説を、演奏記録、楽員の名簿、歴代首席の台帳、英米の音楽誌の全文で確かめました。指揮台の入れ替わり、存命の作曲家の「在庫」、音楽事務所、コンサートマスターの門、楽員の国際化の段階、排除の理屈と公演の実績。支持されたものも、崩れたものも並べます。

この記事の確認度:印の意味

連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる(この記事)
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

この頁は、連載の本文から生まれた「なぜそうなったのか」という問いを、仮説として立て、データで一つずつ確かめていく頁です。本文が「何が起きたか」を記録で示す場所だとすれば、この頁は「なぜか」を考えて試す場所です。確かめが進むたびに書き足していきます。

各仮説には、次の印を付けます。

  • 支持:データが仮説を支えた
  • 一部支持:支える面と、崩れる面がある
  • 崩れた:データが仮説に合わなかった(崩れた仮説も消さずに残します)
  • 保留/判定できず:データが足りず、どちらとも言えない

使うデータは、主に次のものです。

  1. ウィーン・フィルの公式の演奏記録(1842〜2026年の約1万公演。楽団のウェブサイトで公開されているもの)
  2. 指揮者の国籍と生年(Wikidata による。国籍を複数持つ指揮者は、それぞれの国に数えます)
  3. 世界の主な楽団と歌劇場、271団体の歴代の首席指揮者の台帳(筆者が各団体の記録から作成)
  4. 楽団の公式サイトの楽員の紹介(2026年10月に取得、現役141人)
  5. 本文で使った本と論文、英米の音楽誌

ここまでで見えてきたこと

確かめられたことと、まだ説明の候補にとどまることを分けて書きます。

  1. 指揮台:外国の指揮者が増えたのは、看板の指揮者が入れ替わっただけではありませんでした。公演が増えた分は、ドイツ語圏以外の指揮者が引き受けています(仮説1)。ドイツ語圏の指揮者の層が細った理由は、戦争と亡命、名のある指揮者の掛け持ちなど、候補は挙がりましたが、決め手はまだありません(仮説2・24)。
  2. 楽員:楽員の国際化は、旧ハプスブルク圏の土地から始まり、2014年以降に世界へ広がりました。コンサートマスターの席は、それより早くから外で学んだ人に開いていました(仮説13・14)。
  3. 演目:1970年代以降も新しい作曲家は来ていましたが、一度弾くだけで、繰り返す演目にはなりませんでした(仮説7)。
  4. 言葉:英米の雑誌では、国際化が進んでも「ウィーンの音」という言い方は増えていませんでした(仮説12)。
  5. 排除:「見た目の均一さ」を守らないと看板が傷む、という理屈は、門を開いたあとの日本・アジアでの公演の数からは裏づけられませんでした(仮説17)。ユダヤ系の指揮者の起用は、アメリカ市場が安定する前に増えていますが、それが市場を見込んだものだったかは、記録で確かめていません(仮説19)。

仮説の一覧

26の仮説を、テーマごとに六つにまとめました。番号を押すと、その仮説の検証に飛びます。

指揮台の顔ぶれ(誰が振り、なぜ変わったか)

仮説 問い 判定
仮説1 指揮台の国籍の変化は、看板の入れ替わりだけか 一部支持
仮説2 戦後、ドイツ・オーストリアの指揮者が細ったのは、供給のせいか 一部支持
仮説24 名のある指揮者の掛け持ちが、若い世代の席をふさいだか 一部支持
仮説23 客演の指揮者は、大手の音楽事務所の指揮者と重なるか 一部支持
仮説3 出演の多さは、レコード会社と連動するか 一部支持(弱い)
仮説4 拒まれる指揮者は、若い人か 崩れた
仮説5 危機に頼り、平時に外すのは、型か 崩れた
仮説25 楽団が指揮者を「こちら側」「あちら側」に分けたのは、出自によるか 出自説は崩れた

楽員の国際化(国籍・コンサートマスター・教育)

仮説 問い 判定
仮説13 コンサートマスターの席は、早くからの「例外の門」だったか 一部支持
仮説14 冷戦後・EU加盟後に、その地域の生まれの楽員が増えたか 支持
仮説15 卒業生が先に増え、楽団の門は遅れて開いたか 支持(東アジアは遅れが大きい)
仮説16 伝承の場は、師弟から歌劇場とアカデミーへ移ったか 一部支持(移ったより「並んだ」)

演目(何を弾き、何を残したか)

仮説 問い 判定
仮説7 存命の作曲家の曲が減ったのは、「在庫」が尽きたからか 支持
仮説8 ブルックナー、マーラー、シュトラウスを選び直させたのは、外の指揮者か 一部支持
仮説9 世界初演を取れたかは、常任指揮者の好みで決まったか 崩れた
仮説6 客演の指揮者は、自分の国の曲を持ち込むか 一部支持

奏法と「ウィーンの音」の語られ方

仮説 問い 判定
仮説20 ポルタメントの評価が反転したのは、よそが捨てて希少になったからか 一部支持
仮説21 ヴィブラートの評価の割れ方は、指揮者で説明できるか 判定できず
仮説22 「音」の根拠は、人から楽器へ移ったか 一部支持
仮説12 国際化が進むほど、「ウィーンの音」が看板として語られたか 崩れた(英米の雑誌)

お金と市場(客足・旅)

仮説 問い 判定
仮説10 旅に出るのは、地元の収入が細ったときか 一部支持
仮説11 1889〜93年の客離れは、物価高や楽員の不調のせいか 一部支持

排除と、その変化

仮説 問い 判定
仮説17 「見た目の均一さ」による排除は、お金の面で根拠があったか 根拠なし(仮説を支持)
仮説18 排除は、経済の不安の時期に強まったか 崩れた
仮説19 ユダヤ系の指揮者への態度は、アメリカ市場を見込んで変わったか 支持(動機は未確認)
仮説26 楽団は、お金になるならユダヤ系の指揮者も迎えたか 一部支持

指揮台の顔ぶれ(誰が振り、なぜ変わったか)

仮説1 指揮台の国籍の変化は、看板指揮者の入れ替わりにすぎないのではないか(一部支持)

問い:第3章で、オーストリア国籍の指揮者が振った公演が、1910年代の91%から1990年代の4%まで減ったことを見ました。これは、指揮台全体の国際化なのか、それとも少数の看板指揮者が入れ替わっただけなのか。

確かめ方:演奏記録から、10年ごとに、上位3人の指揮者が振った割合と、オーストリア国籍の公演の内訳を出しました。さらに、公演の数そのものが増えたので、割合だけでなく実数でも見ました。

図1 指揮者の人数と、上位3人への集中

図2 誰が指揮台に立ったか

結果1:割合の上下は、看板指揮者で大きく動く。オーストリア国籍の公演の中身は、ほとんど一人か二人です。1910年代はヴァインガルトナー一人でオーストリア分の75%、1960年代はベームとカラヤンで74%、2000年代はアーノンクールで83%、2010年代はヴェルザー=メストで91%でした。1960年代に割合が戻ったのはベーム(152公演)とカラヤン(106公演)のおかげで、カラヤンが亡くなった後の1990年代に4%まで落ちたのは、後を継ぐ看板がいなかったからです。

結果2:ただし、看板を除いても、オーストリアの指揮者は減っている。上位3人を除いた「その他大勢」の層で、オーストリア国籍の割合を出すと、1910〜30年代の44〜48%から、1950〜80年代は22〜32%、1990年代以降は3〜6%になります。戦後と1990年代の二段階で、底の層でも減っていました。

結果3:増えた公演は、ドイツ・オーストリアの指揮者では埋まらなかった。

年代 公演(国籍が分かる分) 独墺の指揮者 それ以外の指揮者
1940年代 809 722 87
1960年代 662 428 234
1970年代 699 353 346
1980年代 782 229 553
1990年代 892 95 797
2000年代 1,163 266 897
2010年代 1,276 328 948

(独墺=ドイツかオーストリアの国籍を持つ指揮者。両方を持つ人は1回だけ数えています)

1970年代から2010年代にかけて、公演は577増えました。そのあいだに独墺の指揮者の公演は25減り、それ以外の指揮者の公演が602増えています。

結果4:看板に頼る度合いそのものが下がった。上位3人が振った公演の割合は、1910年代の83%から、1930〜80年代の40〜50%を経て、2010年代は21%まで下がりました。10年ごとに振った指揮者の人数は、1930年代以降ずっと50〜65人です。

判定:一部支持。割合の上下は看板の入れ替わりで大きく動きますが、それだけでは説明できません。底の層でもドイツ・オーストリアの指揮者は減り、増えた公演は外の指揮者が引き受けました。言いかえると、楽団が演奏会を増やしたとき、その増えた分を、それまでの独墺の指揮者の層では埋めなかった、ということです。

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仮説2 戦後、ドイツ・オーストリアの指揮者が減ったのは、供給が細ったからではないか(一部支持)

問い:では、なぜドイツ・オーストリアの指揮者で埋まらなかったのか。指揮者そのものが育たなかったのか、楽団が外の指揮者を選んだのか。

図3 首席指揮者になった人のうち、独墺瑞の国籍の割合

結果1:戦争の前後に生まれた世代が薄い。世界271団体の首席の台帳で、首席になった指揮者のうち、ドイツ・オーストリア・スイスの国籍の人の割合を、生まれの年代ごとに出しました。1880〜1930年代生まれは34〜42%でしたが、1940年代生まれは22%、1950年代生まれは23%に落ちます。この世代が働き盛りになる1980〜2000年代は、ウィーン・フィルの指揮台で独墺の指揮者が最も少なかった時期と重なります。(台帳はドイツの団体を厚く拾っているので、割合の水準は高めに出ます。見てほしいのは落ち方です。)

結果2:歌劇場は持ちこたえ、演奏会の楽団が先に外国人になった。ドイツ語圏の団体の首席のうち、独墺瑞の国籍の人の割合は、歌劇場では1970年代まで85〜90%を保ち、1980年代に66%、2010年代に48%になりました。演奏会の楽団では、1960年代にすでに63%に下がり、1990年代には21%です。歌劇場で下積みから育てる道は後まで残り、演奏会と録音の市場が先に国際化しました。

結果3:戦後の「外国の指揮者」は、まず中欧から散った人たちだった。1930年代にウィーン・フィルを振った亡命組(ワルター、クレンペラー)は、1938年以降いなくなります。戦後の1950〜60年代に入ってきた外国の指揮者の中心は、クーベリック(チェコ)、ショルティ、セル、オーマンディ、ケルテス(いずれもハンガリー)でした。ナチと共産化で中欧から追われ、西の国籍を取った人たちです。中欧の外から来た指揮者(アバド、バーンスタイン、マゼール、ムーティ、小澤、メータ)が主役になるのは1970年代からです。

結果4:東の層は、冷戦の後に入ってきたが、東ドイツは別だった。冷戦のあいだ、東側に住む指揮者がウィーン・フィルを振ることはごくわずかでした。冷戦の後、東側の出身の指揮者の公演は、1990年代87、2000年代153、2010年代207と増えます(ゲルギエフ、ヤンソンス、ネルソンス、ペトレンコなど)。ところが、東ドイツで活動した指揮者は、冷戦の後も呼ばれていません。マズアは1970年に1回だけで、1991年にニューヨーク・フィルの音楽監督になった後もゼロ、ケーゲル、ヘルビヒ、レーグナー、スイトナー、ザンデルリンクはゼロです。

判定:一部支持。供給の世代の空白は数字で見えます。ただし、冷戦の後の東ドイツの指揮者の扱いは、供給だけでは説明できず、楽団の選び方の問題が残ります。また、1940〜50年代生まれのドイツ語圏で、なぜ指揮者を目指す人が少なかったのかは、データからは分かりません。

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仮説24 名のある指揮者の掛け持ちが、下の世代の席をふさいだのではないか(一部支持)

戦後、ドイツ・オーストリアの指揮者が細った理由(仮説2)の候補として立てた仮説です。ジェット機で移動が速くなると、名の通った指揮者は、いくつもの楽団や歌劇場の首席を同時に抱えられるようになりました。そのぶん、歌劇場で下積みをしている若い指揮者が上がれる席が減ったのではないか、という見立てです。

世界の主な271の楽団・歌劇場の歴代首席の台帳で、首席の席のうち、同じ年にほかの首席も兼ねていた人が占めた割合を数えました。

年代 掛け持ちの人が占めた席の割合 一人あたりの首席の数
1900〜1940年代 7〜10% 1.04〜1.06
1950年代 13% 1.07
1960年代 22% 1.13
1970年代 27% 1.16
1990年代 29% 1.18
2010年代 31% 1.21

掛け持ちは1950年代から急に増えました。ドイツ語圏の楽団・歌劇場に限ると、1960〜70年代に席を掛け持ちしていたのは、サヴァリッシュ(1923年生まれ)、カイルベルト(1908年)、カラヤン(1908年)、ケンペ(1910年)といった上の世代でした。ちょうど1940〜50年代生まれの世代が、首席を狙い始める時期です。1980〜90年代になると、ドイツ語圏の席を掛け持ちする顔ぶれは、イスラエル、ポーランド、日本、ロシア、スペインの指揮者に替わります。

判定:一部支持です。仮説2が指揮者の育つ側(供給)を見たのに対し、ここでは首席の席の側(席の取り合い)を見ました。掛け持ちが増えた時期も、掛け持ちしていた人の世代も、仮説に合います。ただし、初めて首席になった年齢の中央値は、どの世代でも38〜40歳前後で、はっきり上がってはいません。席の取り合いが厳しくなった形は見えますが、若い世代の登用が実際に遅れたという証拠は見つかっていません。下の世代が細った理由は、戦争と亡命など、ほかにもあり得ます。掛け持ちは、その有力な一つとして残します。

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仮説23 客演の指揮者は、大手の音楽事務所の抱える指揮者と重なるのではないか(一部支持)

問い:ノーマン・レブレヒトは『巨匠神話』で、アメリカの音楽事務所コロンビア・アーティスツの社長ロナルド・ウィルフォードの抱える指揮者が、ウィーン国立歌劇場と「ウィーン・フィル演奏会の四分の三」を押さえている、と書いています(邦訳 p.519。執筆は1991年ごろ)。楽団は1992年、創立150年に際して、ウィルフォードに楽団の名誉の指輪を贈っています(ヘルスベルク『王たちの民主制』)。

確かめ方:レブレヒトの同じ章から、ウィルフォードが担当していた指揮者と、名指しで担当していないとされた指揮者を拾い、演奏記録と重ねました。

時期 ウィルフォード側 アバド(アメリカでだけ所属) 名指しで外(マゼール、バーンスタイン、メータ、ショルティほか) その他
1970〜74年 14% 21% 17% 48%
1980〜84年 29% 7% 43% 22%
1985〜89年 31% 22% 32% 15%
1990〜94年 47% 13% 27% 14%
1995〜99年 36% 2% 40% 22%

図4 指揮台のうち、音楽事務所CAMIの指揮者が振った割合

結果:「四分の三」は確かめられませんでした。アバドを全部ウィルフォード側に数えても、いちばん多い1990〜94年で6割です。ただ、1990年前後には半分前後まで来ていて、名誉の指輪の時期と重なります。一方、1980年代にいちばん多く振ったマゼールとバーンスタインは、ウィルフォードの外の人でした。また、東ドイツのマズアとヘルビヒはウィルフォードの側にいたので、東ドイツの指揮者が呼ばれなかった理由は、事務所の網ではありません。

もう一つの発見:中堅の層が消えた。1970年代には、指揮台のほぼ半分を、ラインスドルフ、ハーガー、ドホナーニ、ベーム、ヨッフム、シュタインといった中堅の、ドイツ語圏寄りの指揮者が振っていました。この層が、1980年代後半には15%まで縮みます。事務所に属しているかどうかより、「中堅の指揮者から、世界的な看板の指揮者へ」という入れ替わりの方が大きかったことになります。

看板ごとの受け持ち:看板の指揮者たちは、それぞれ違う市場の入り口を受け持っていました。

指揮者 公演 主な受け持ち
バーンスタイン 193 定期は26(13%)だけ。旅公演91(アメリカ36)、テレビのための演奏会15、若い聴衆向け22
マゼール 363 ニューイヤー・コンサート33(看板の中で最多)、旅公演177(日本30)
ムーティ 528 ザルツブルク音楽祭116
カラヤン 290 ザルツブルク音楽祭96

バーンスタインは、事務所を通さず、自分の会社とレコード・映像の会社を通して、アメリカ市場とマーラーの権威を楽団にもたらしました。マゼールは、世界に中継されるニューイヤーと日本公演という、楽団の看板がいちばんお金になる場所を受け持ちました。

判定:一部支持。事務所の影響は1990年前後に頂点を迎えましたが、楽団が事務所に握られていたとまでは言えません。言えるのは、楽団は指揮者を選ぶ権利を保ちながら、選ぶ基準が、市場ごとに売れる看板の方へ寄っていった、ということです。楽団の始まりが、歌劇場の楽員が自分たちの演奏会で稼ぐための集まりだったこと(第5章)を思えば、これは原点に戻る動きだったとも言えます。

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仮説3 出演の多い指揮者は、レコード会社の専属と連動しているのではないか(一部支持・弱い)

英米の音楽誌(Gramophone、High Fidelity)で、ウィーン・フィルの録音の評に出てくる指揮者とレコード会社を拾い、演奏会の回数と並べました。

  • 1950年代は、デッカの録音が評の多くを占め、そのデッカで録音した指揮者が、演奏会でも中心でした。
  • ショルティは、デッカの評が123件あるのに、演奏会は28回でした。録音の看板と、演奏会の常連は、必ずしも一致しません。
  • 1970年代には、評に出るレコード会社が、デッカからドイツ・グラモフォンへ移ります。

指揮者と年代の組で、演奏会の回数と録音の評の件数の順位相関は0.22でした。

判定:一部支持(弱い)。レコード会社の移り変わりと、演奏会の顔ぶれの移り変わりは、時期として重なります。ただ、一人ひとりの回数まで連動しているとは言えません。

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仮説4 楽団が拒む指揮者の共通点は、若さではないか(崩れた)

初めて振ったあと、ほとんど呼ばれなかった指揮者と、その後も繰り返し呼ばれた指揮者を比べました。前者を「一度きり型」(初登場から5年以内に4回以下しか振らず、その後10年呼ばれなかった人)166人、後者を「定着型」(初登場から15年以内に20回以上振った人)45人として数えています(初登場1925〜2010年)。

  • 初登場の年齢の中央値は、一度きり型が46歳、定着型が41歳でした。若い人ほど拒まれた、という形にはなっていません。
  • ドイツ・オーストリアの国籍の人の割合も、37%と40%で、ほとんど差がありません。
  • 小澤、ブーレーズ、プレートルのように、一度きりで終わったあと、何年もたってから戻ってきた人もいます。

あわせて、初めて振った指揮者が次に呼ばれるまでの間隔も数えました(演奏会のみ。45日以上あいたら次の招きとして数えた)。

初登場の時期 人数 演奏会では一度きり 次までの間隔(中央値) 3年以内に戻った
1900〜44年 150人 49% 1.9年 31%
1945〜69年 90人 41% 1.9年 34%
1970〜89年 52人 48% 2.0年 31%
1990〜2009年 64人 36% 2.1年 36%
2010〜20年 30人 43% 1.5年 47%

初めて呼ばれた指揮者のおよそ半分は、演奏会では二度と呼ばれません。これは100年以上ほぼ変わりません。 初めての客演が、続く関係につながるとは限らないのが、この楽団の普通の姿です。たとえばテンシュテットは、1982年8月29日の一度きりでした。一度きりは例外ではなく、よくある側です。区切りを3か月に変えて数え直しても、同じ結果になりました。なお、この数字は演奏会だけで、国立歌劇場の公演は入っていません。歌劇場で振り続けている指揮者も「一度きり」に数えられています。

判定:崩れました。年齢でも国籍でも、一度きり型と定着型は分けられません。何が「合う・合わない」を分けたのかは、この数字の外にあります。

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仮説5 「危機に頼り、平時に外す」は型ではないか(崩れた)

危機の時期に多く振った指揮者(その時期に5回以上振った上位10人まで)のうち、その後の10年にも5回以上振った人は、1918〜21年が5人中4人、1938〜47年が10人中6人、戦後すぐの1945〜47年が10人中7人でした。平時の時期(1925〜29年、1955〜59年、1975〜79年)に同じ物差しを当てると、10人中7人、7人、9人です。

判定:崩れました。危機の時期に振った指揮者が、平時に特に外されたわけではありません。戦後のクリップスの扱いは、型ではなく、一人の事情として見るべきです(第4章)。

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仮説25 楽団が指揮者を「こちら側」「あちら側」に分けたのは、出自によるのではないか(出自説は崩れた)

問い:常任の指揮者は、楽団の内の人と外の人が交互に来たように見えます。けれども、「内」「外」を生まれや学んだ場所で決めると、線引きを筆者が選ぶことになります。そこで、三つの見方を別々に記録して、食い違いを見ました。①楽団の側から見て、こちら側として扱われたか、あちら側として扱われたか(公式史、楽員の回想、楽団史の書きぶりと、総会の票)。②本人が自分をどう語ったか。③出自(生まれ、学んだ場所、ユダヤ系の出自、楽員だったか)。

常任の指揮者 出自 楽団の側から
ニコライ(1842〜47年) ドイツ、新教徒 揺れた(生前は衝突し、没後に「創設者」として内へ)
デッソフ(1860〜75年) ドイツ、ユダヤ系 こちら側(ウィーン生まれのヘルメスベルガー父とヘルベックを退けて62票。15年在任)
リヒター(1875〜98年) ハンガリーのラーブ生まれ、元楽員 こちら側(1883〜98年の得票率99.48%)
マーラー(1898〜1901年) ボヘミア、ユダヤ系、ウィーンの音楽院 揺れた(1900年に89票中86票、辞めたあと1902年に28票、1903年に13票)。楽団の中の溝が、マーラーへの賛否の党派分けになった
ヘルメスベルガー息子(1901〜03年) ウィーンの音楽一家 こちら側(63票、翌年52票)
ヴァインガルトナー(1908〜27年) ダルマチア生まれ こちら側(106票中105票)、1920年代に距離
フルトヴェングラー(1927〜30年) ベルリン 揺れた(初めは満場一致でなく、ベルリンを選んで去る)
クラウス(1930〜33年) ウィーン生まれ あちら側寄り(歌劇場の総監督として楽団の上に立ち、1933年の総会は「クラウスへの公然たる宣戦布告」に85票)

(票は公式史ヘルスベルク『王たちの民主制』1992年。楽団の側からの扱いは、公式史、トゥリュンピ、シュトラッサーの回想による)

結果1:出自では決まっていない。ユダヤ系でドイツから来たデッソフは、ウィーン生まれの候補を退けて選ばれ、15年間こちら側でした。ウィーン生まれのクラウスやシャルクが、一時あちら側に置かれています。

結果2:帝国の時代には、出自より音楽と立場で人を見る広さがあった。ハンガリー生まれのリヒターは、選挙のたびにほぼ全票を集めました。カール・フレッシュは、リヒターを、オーストリア=ハンガリー帝国が「驚くほど多く生み出してきた」天性の音楽家の一人と書いています(フレッシュ『回想録』p.152)。ところが戦後、デッカのカルショーが楽団に紹介したハンガリーの若い指揮者ケルテスは、「ハンガリー人だという理由で」ウィーンの人々に好まれず、同じことはチェコ人にも当てはまった、とカルショーは書きます。そして、「ハンガリーもチェコスロヴァキアも第一次世界大戦の終わりまでハプスブルク帝国の一部だったのだから、ウィーンの人に『純粋な』血筋など言えるはずもない」と添えています(カルショー『Putting the Record Straight』1982年、p.191〜192)。ただし、帝国の時代にも、マーラーへの反発には反ユダヤ的な党派が絡んでいました。

結果3:あちら側に置かれた人に共通しそうなもの。マーラーとクラウスは、どちらも歌劇場の監督、つまり楽員の雇い主の側にいた人です。楽団にとっての「あちら側」は、生まれより、楽団の上に立とうとする人だったのかもしれません。ただ、ヴァインガルトナーも歌劇場の監督を兼ねながら105票で選ばれており、これだけでは説明しきれません。

判定:出自で分けた、という説は崩れました。帝国の時代には出自より音楽と立場で人を見る広さがあり、帝国が終わったあとに幅が狭まった、という形が見えます(1921〜38年の採用は仮説18、1938年に追われた楽員の多くが帝国の時代に入った人だったことは第6章)。上下関係で分けた、という説は、まだ確かめていません。

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楽員の国際化(国籍・コンサートマスター・教育)

仮説13 コンサートマスターの席は「例外の門」だったのではないか(一部支持)

この節で見ること:楽団の門は、一斉に開いたのではなく、席ごとに違う速さで開いたのではないか。その手がかりとして、コンサートマスターの席を見ます。

問い:楽員全体が多国籍になったのは1990年代の後半からでした(第2章)。では、楽団の顔であるコンサートマスターはどうだったのか。もう一つ、1970年代以降に指揮者が多国籍になり、楽団と指揮者のやりとりが複雑になったことが、外国にルーツのあるコンサートマスターを求めさせたのではないか、という説も確かめます。

確かめ方:1830年から今までの歴代のコンサートマスター30人の、生まれた場所と、音楽を学んだ場所を調べ、就任の時期ごとに数えました(筆者の台帳。各人の典拠は人名事典・楽団の資料など)。ここで「外の人」と数えるのは、ウィーンの外で音楽を学んだ人です。生まれた場所や家のルーツではありません。表の括弧には、学んだ場所と、参考に生まれた場所を書きます。

就任の時期 新しいコンサートマスター ウィーンの外で学んだ人(学んだ場所/生まれ)
1830〜1899年 7人 1人(プリル:ベルリン/ベルリン)
1900〜1945年 7人 2人(アーナー:ドレスデン/ドレスデン、オドノポソフ:ベルリン/ブエノスアイレス)
1946〜1969年 6人 2人(シヴォー:ブダペスト/ルーマニアのアラド、ヘッツェル:ルツェルン/旧ユーゴのヴルバス)
1970〜1999年 6人 2人(パラシュケヴォフ:ソフィア、レニングラード/ブルガリア、シュトイデ:ベルリン/ライプツィヒ)
2000年〜 4人 4人全員(ダナイローヴァ:ロストック、ハンブルク/ソフィア、ブルーメンシャイン:フィラデルフィア/フライブルク、ルーディン:パリ/モスクワ、サーディ:ナザレ、ベルリン/ナザレ)

結果1:例外の門だった。1900年から1999年まで、新しいコンサートマスターのほぼ3人に1人は、ウィーンの外で学んだ人でした。楽員全体では、1974年の時点で82%がオーストリア生まれでした。入り方にも例外があり、オドノポソフ(1933年)とシュナイダーハン(1937年)は、入団試験を経ずに招かれています。

結果2:ただし、2000年より前の「外」は、ドイツ語圏と中東欧の内側だった。学んだ場所は、ベルリン(3人)、ドレスデン、ルツェルンといったドイツ語圏の町か、ブダペスト、ソフィアといった中東欧の町です。学んだ場所が大西洋の向こうやパリ、中東にまで広がるのは、2008年以降の4人からでした。

結果3:指揮者の多国籍化は、遅れて効いた可能性がある。外国の指揮者が最も多かった1980年代に就任したコンサートマスター(キュッヒル、ヒンク、ビンダー、ホーネック)は、全員ウィーンで学んだ人でした。一見、時期が合いません。けれども、コンサートマスターの在任はとても長く、キュッヒルは45年、ヒンクは34年、ホーネックは40年を超えます。席が空いたのは、ヒンクが退いた2008年と、キュッヒルが退いた2016年で、空いた席は全部ウィーンの外で学んだ人で埋まりました。ここで確かめられたのは、指揮者の国際化とコンサートマスターの交代が同時には進まなかった、という時間差までです。長い在任のあいだ席が空かなかったことは、その時間差を説明する候補の一つです。指揮者の顔ぶれの変化が、席の空くのを待って遅れて表れた、という見方もできますが、因果そのものは確かめていません。

判定:一部支持。例外の門だったことは支持されます。指揮者の多国籍化が原因だったかどうかは、遅れて効いたと見れば時期は合いますが、候補になる人の顔ぶれそのものが変わったこと(仮説14)とは、今のデータでは切り分けられません。

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仮説14 冷戦の終わりやEU加盟の後に、その地域の生まれの楽員が跳ねるのではないか(支持)

確かめ方:公式サイトの楽員の紹介(2026年10月、現役141人)から、国立歌劇場の管弦楽団に入った年と、生まれた国を数えました。今も在籍している人だけなので、古い時期に入った人ほど少なく出ます。

歌劇場に入った時期 人数 オーストリア ドイツ 中東欧・旧ソ連 西欧 ヨーロッパの外
〜1988年 6 83% 17% 0% 0% 0%
1989〜94年(冷戦の後) 17 59% 12% 18% 0% 12%
1995〜2003年(EU加盟の後) 30 73% 7% 20% 0% 0%
2004〜13年(中東欧のEU加盟の後) 49 59% 8% 29% 4% 0%
2014年〜 33 45% 6% 21% 15% 12%

図6 今の楽員の生まれた地域

結果:冷戦の後に中東欧の生まれが現れ、中東欧のEU加盟の後には29%まで増えました。生まれた国は、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ポーランド、ウクライナ、スロベニア、ブルガリア、アルバニアなどで、多くは旧ハプスブルク帝国の土地か、その隣です。西欧(イタリア、フランス、スイス)とヨーロッパの外の生まれがまとまって入ってくるのは、2014年以降でした。

判定:支持。多国籍化の中身は、最初は旧ハプスブルク圏の再結合で、世界に開くのは2014年以降でした。コンサートマスター(仮説13)と同じ二段階の形です。

時期を並べると:楽団は1997年に女性の入団を認め、2013年にナチ時代の研究を公開しました。2014年6月には、17年務めた楽団長ヘルスベルクが総会で交代し、後任のグロースバウアーは、ナチ時代に奪われた美術品の返還を進め、「以前よりずっと国際的だ」と語っています。2017年6月、「変化の速さに危機感を持った保守派」が秘密投票でグロースバウアーを降ろし、現在の楽団長フロッシャウアーが選ばれました(Slipped Disc 2014年6月12日、2014年12月27日、2016年12月12日、2017年6月20日)。2014年以降の国際化が、2017年の交代で変わったかどうかは、まだ確かめていません。

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仮説15 外国人の卒業生が先に増え、楽団の門は遅れて開いたのではないか(支持。ただし東アジアは遅れが大きい)

ペステルによると、1970年代の終わりには、ウィーンの音楽アカデミーの学生の約8%が日本人でした。ところが、2026年10月の楽員名簿で、東アジア生まれの楽員は、ソウル生まれのヴァイオリン奏者1人だけです(歌劇場に2022年、ウィーン・フィルに2025年に入会)。日本生まれの楽員はいません。

中東欧の生まれの人は、冷戦が終わってから10〜20年で楽員に増えました(仮説14)。東アジアの卒業生は、増え始めてから約50年たっても、門がわずかに開いた程度です。

判定:支持です。卒業生が先に増え、門が遅れて開くという順番は当てはまります。ただし、遅れの長さは地域で大きく違い、東アジアは20年どころではありません。

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仮説16 伝承の仕組みは、師弟から歌劇場とアカデミーへ移ったのではないか(一部支持)

この節の要約:今の楽団には、ウィーンで育った人が楽員に習って入る筋と、外で育った人があとからウィーンで仕上げて入る筋とが、並んでいるように見えます。以下、1992年の名簿、今の楽員の経歴、そして系譜の順に見ます。

1992年の公式史の巻末の楽員名簿で、教職の記載がある人を数えました。

入会の年代 人数 教えている人 うちウィーン音大
1950年代 15 6 3
1960年代 32 12 9
1970年代 52 21 11
1980年代 26 6 3

1992年の時点では、1950〜70年代に入った楽員の約4割が、音大などで教えていました。1980年代に入った人はまだ若く、低い割合は在籍年数の差かもしれません。名簿の一部の頁が欠けているので、数は少なめに出ています。同じ名簿では、1950〜70年代に入った楽員の約9割がウィーンで学び、8〜9割が楽員に習っていました(第2章)。

今の楽員:楽団の公式サイトの楽員の紹介には、生まれた場所、楽器、入団の年しか載っていません。1992年の名簿のように師匠や教職までは書かれていないので、大学の教員紹介、音楽祭や室内楽団の出演者紹介、本人のサイトなど、外に公開された経歴を一人ずつ拾いました(2026年10月。現役141人のうち、経歴が見つかったのは89人)。

生まれ 人数 経歴が分かった人 ウィーンで学んだ 楽員に習った
ウィーン 33人 21人 20人(95%) 11人(52%)
ウィーン以外のオーストリア 51人 28人 25人(89%) 21人(75%)
外国 57人 40人 23人(58%) 10人(25%)

(割合は、経歴が分かった人に対するものです。経歴に先生の名前が書かれていない人もいるので、「楽員に習った」は少なめに出ます)

オーストリア生まれの楽員の経歴に、師匠として何度も出てくるのは、ヴァイオリンのアルフレート・シュタール(ホーネック、フロッシャウアー、グロースバウアーら)、クラリネットのヨハン・ヒンドラー、ヴィオラのオクセンホーファーです。オーストリア生まれの楽員のうち、今、大学で教えていることが経歴から分かる人は14人で、うち9人がウィーン音楽演劇大学です。

歌劇場に入った年代で分けると、オーストリア生まれで楽員に習った人は、1990年代が8人中7人、2000年代が19人中13人、2010年代が9人中6人、2020年代が9人中3人でした。2020年代の低さは、楽団が自前のアカデミーを作った2018年以降の時期と重なりますが、人数が少なく、傾向とまでは言えません。

判定:一部支持です。オーストリア生まれの楽員の中では、ウィーンで学び、楽員に習うという師弟の筋は、今も太く残っています。けれども、楽員の4割を占める外国生まれの人は、楽員に習った人が4人に1人で、多くはその筋の外で育ち、仕上げにウィーンで学んでいます。伝承の仕組みは、師弟から別のものへ「移った」というより、師弟の筋と、外で育って仕上げにウィーンへ来る筋とが、「並んだ」と言う方が実態に近い形です。

系譜そのもの:師弟の筋をさかのぼると、一本の線ではありません。1942年の楽団の記念誌の巻末にある「ウィーンのヴァイオリン楽派」の系統図は、19世紀前半の音楽院の教授ヨーゼフ・ベームの弟子として、ヘルメスベルガー、グリューン、ヨアヒムらを並べ、ヨアヒムについて「ベルリン楽派を創った」と書いています。1897年にベルリンから来たコンサートマスターのプリルは、このヨアヒムの側の弟子の欄に名前があります(仮説13)。同じ根から分かれた流れが、外の門を通って戻ってきたことになります。

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演目(何を弾き、何を残したか)

仮説7 存命の作曲家の曲が減ったのは、楽団が受け入れられる「在庫」が尽きたからではないか(支持)

問い:第4章で、定期演奏会で存命の作曲家の曲が占める割合が、1960年代の17.5%から1970年代の6.2%へ急に下がったことを見ました。新しい作曲家が現れなくなったのか、それとも楽団が受け入れられる作曲家の「在庫」が尽きたのか。

図5 存命の作曲家と「在庫」

結果1:落ちたのは、古い世代が亡くなった分だった。1950〜60年代の存命の作曲家の曲を支えたのは、1880〜1909年生まれの世代(ストラヴィンスキー、ヒンデミット、ショスタコーヴィチ、ブラッハー、エック、ベルガーら)でした。この世代が1960〜70年代に亡くなり、あとを埋める曲は増えませんでした。

結果2:新しい作曲家は来ていたが、在庫にならなかった。定期演奏会に初めて登場した存命の作曲家について、存命のうちに何シーズン取り上げられたかを数えました。

初登場の時期 作曲家の数 存命中に取り上げたシーズン数(平均) 1シーズンきりだった人
1900〜49年 39人 3.5 28%
1950〜69年 17人 1.9 59%
1970年以降 31人 1.5 68%

1970年以降も、リゲティ、ヘンツェ、ペンデレツキ、ベリオ、シュトックハウゼン、武満、シュニトケ、ノイヴィルト、ヴィトマンらが登場しています。けれども、7割近くは一度きりでした。戦前に入った作曲家は、ストラヴィンスキー19シーズン、ベルガー10、プフィッツナー10、フランツ・シュミット8、ヒンデミット7と、存命のうちに繰り返されています。

結果3:一度きりの演奏の多くは、誰かに花を持たせるものだった。1970年以降に初登場した存命の作曲家の演奏45回を、誰が振ったかで分けました。

型 回数 例
指揮者の自作自演 7 マゼール、ブーレーズ、サロネン、アデス
楽員の作品 6 プリンツ(クラリネット)、フュルスト(ヴィオラ)、ルネ・シュタール(第2ヴァイオリン)
指揮者と同じ国の作曲家 6 メータとクラム、小澤と武満、ゲルギエフとシチェドリン、ティーレマンとヴィトマン・ライマン、エッシェンバッハとリーム
オーストリアの作曲家(楽員以外) 12 ツェルハ、エーダー、ヴィリ、ヴィンベルガー、グルーバー、ノイヴィルト、ラルヒャー
それ以外(指揮者が推した現代曲) 14 ペンデレツキ、ベリオ、ルトスワフスキ、シュニトケ、シュトックハウゼン、カーター、デュティユーほか

判定:支持。存命の作曲家の曲が減ったのは、新しい作曲家が現れなかったからではなく、現れても一度試しに弾くだけで、繰り返す「在庫」にしなかったからです。一度きりの演奏の半分近くは、指揮者の自作、楽員の作品、指揮者と同じ国の作曲家でした。第4章で見た、戦前の新作の試演に表れていた「弾くこと」と「演目として受け入れること」のずれが、戦後にも別の形で現れていた、と言えます。

(作曲家の生没年は Wikidata による。ヨゼフ・スク(1874〜1935年)が、同名の孫のヴァイオリニスト(1929〜2011年)と取り違えて登録されていたので、直してから数えています。)

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仮説8 ブルックナー、マーラー、シュトラウスを選び直したきっかけは、外の指揮者か(一部支持)

作曲家ごとに、演奏が跳ねた時期と、その時期に最も多く振った指揮者を見ました。

  • ブルックナー:1920年代に跳ね、中心はシャルク(ウィーンの内の人)でした。
  • ヨハン・シュトラウス2世:中心はシャルク、クラウス、ボスコフスキーで、どれも内の人です。
  • マーラー:戦前はワルター、戦後はバーンスタインが中心でした。

判定:一部支持です。マーラーだけは、外から来た指揮者が持ち込み、選び直させました。ブルックナーとシュトラウスは、内の人が選び直しています。

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仮説9 世界初演を取ったか逃したかは、常任指揮者の好みで説明できるか(崩れた)

世界初演が集まったのは、デッソフとリヒターの時代(1860〜1898年)です。ブラームスの交響曲第2番・第3番、ブルックナーの第2番・第4番・第8番などがここに入ります。リヒターが率いた22シーズン、175回の定期演奏会で、ブルックナーは8回取り上げられました。ただし、評価の割れていた存命の作曲家にとっては、取り上げてもらえるだけでありがたかった、とも読めます。回数だけでは、指揮者の好みの強さは測れません。

1900年に、ライバルのウィーン・コンツェルト協会(いまのウィーン交響楽団の前身)ができると、ブルックナーの第9番の初演(1903年)はそちらへ行きました。1920年代のマーラーの復興も、主にそちらの楽団が担っています。

判定:崩れました。初演が集まったかどうかは、指揮者の好みより、ウィーン・フィルがウィーンで競争相手を持たない立場にあったかどうかで説明できます(第4章・第5章のコラム)。仮説8で見たのは、どの作曲家を演目として選び直したかで、そこでは内の指揮者と外の指揮者がそれぞれ違う働きをしていました。それとは別に、初演の機会そのものには、町の中の競争の具合が効いていた、ということになります。

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仮説6 客演の指揮者は、自分の国の曲を持ち込むのではないか(一部支持)

  • ロシアの曲を振ったうち、ロシアの指揮者が振った割合は、6%から、のちに38〜40%まで上がりました。同じ時期に、プログラムの中のロシアの曲も、長く3%前後だったのが、2010年代に8%、2020年代に10%へ増えています。
  • イタリアの曲も、イタリアの指揮者が振る割合が47%から64%に上がりました。
  • 一方、アメリカの指揮者は1980年代に演奏会のおよそ半分を振っていましたが、アメリカの曲はおよそ2%のままでした。

判定:一部支持です。ロシアとイタリアでは、指揮者が自分の国の曲を持ち込んだ形が見えます。アメリカの指揮者は、自分の国の曲ではなく、ウィーンの定番の曲を振りに来ていました。

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奏法と「ウィーンの音」の語られ方

仮説20 ポルタメントの評価が反転したのは、ほかの楽団が捨てて希少になったからではないか(一部支持)

確かめ方:英米の音楽誌(High Fidelity、Gramophone)の全文から、弦楽器のポルタメントやグリッサンドに触れた評を拾い、古い録音の復刻や往年の奏者(メンゲルベルク、クライスラー、トスカニーニら)の話として語られているかを数えました。

年代 件数 古い録音・往年の奏者の話
1920〜40年代 22〜53件 2〜5%
1950年代 131件 11%
1960年代 115件 15%
1970年代 172件 18%
1980年代 79件 11%

図7 ポルタメントが過去の弾き方として語られた割合

結果:1950年代から、ポルタメントは「過去の弾き方」として語られることが増えました。「今では」「もう〜しない」と過去のものとして語る言い方も、1950年代の30%から1980年代の39%に増えています。ウィーン・フィルのポルタメントが「本物らしい」(1961年)、「自然な」(1982年)、「惜しみない、メンゲルベルク以来」(1985年)と褒められたのは、まさにこの時期でした(第2章)。

判定:一部支持。ポルタメントがほかの楽団から消えて希少になったことは、雑誌の語り方で裏づけられ、ウィーン・フィルが褒められた時期とも重なります。ただ、ウィーン・フィルについての評は手作業で拾っても9件と少なく、評価の反転を数で示すまではできません。

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仮説21 ヴィブラートの評価の割れ方は、指揮者で説明できるか(判定できず)

英米の音楽誌で、ウィーン・フィルの文脈でヴィブラートに触れた評は、10件ほどしかありませんでした。指揮者ごとに分けて比べるには少なすぎます。

判定:判定できません。

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仮説22 楽員が多国籍になるほど、「音」の根拠は人から楽器へ移されているか(一部支持)

この節で見ること:仮説12が「ウィーンの音」という看板の言葉がどれだけ使われたかを見たのに対し、ここでは、楽団の音を説明するときに何を根拠に挙げたか(人か、楽器か)を見ます。

英米の音楽誌でウィーン・フィルに触れた箇所の前後に、人の語(players、tradition、school など)と楽器の語(horn、oboe、instruments など)が出る割合を数えました。

年代 箇所 人の語 楽器の語 楽器÷人
1930年代 207 13.0% 7.2% 0.56
1950年代 1,552 9.5% 5.5% 0.57
1960年代 783 10.9% 4.9% 0.45
1970年代 365 11.2% 7.9% 0.71
1980年代 196 9.2% 8.2% 0.89

1970年代から、楽器の語の割合が上がり、人の語とほぼ並ぶまでになりました。仮説12で見たように、同じ雑誌で「ウィーンの音」という言い方は減っていました。看板の言葉が減る一方で、説明の根拠として楽器が挙がることは増えた、という二つの変化が、同じ時期に起きていたことになります。

判定:一部支持です。ただし、データは1980年代で終わり、楽員が本当に多国籍になる1990年代以降は追えていません。1970年代の変化は、楽員の構成より、ウィーンのホルンやオーボエを取り上げる記事が増えたことを映しているのかもしれません。

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仮説12 国際化が進むほど、「ウィーンの音」が看板として多く語られるのではないか(英米の雑誌では崩れた)

この節で見ること:「ウィーンの音」という看板の言葉そのものが、いつ、どれだけ使われたか。音の説明に何を根拠に挙げたかは、仮説22で見ます。

確かめ方:雑誌の分量は年によって違うので、同じ雑誌の中で、ウィーン・フィルに触れた箇所100件あたり、「ウィーンの音」を表す言い方(Viennese sound、Vienna tone、Viennese style、Viennese tradition など)がいくつ出てくるかを数えました。

雑誌 年代 ウィーン・フィルへの言及100件あたり
High Fidelity(米) 1950年代 7.6
1960年代 3.8
1970年代 4.0
1980年代 2.8
Gramophone(英) 1930年代 2.4
1940年代 3.0
1950年代 2.0
1960年代 1.7

図8 「ウィーンの音」を表す言い方の出現

結果:逆でした。アメリカでは、LPレコードが広まり、ウィーン録音が盛んに売られ、楽団が初めてアメリカに渡った1950年代に「ウィーンの音」が最も多く語られ、楽団が国際化した1980年代には減っています。イギリスでも1940年代が山で、その後は下がっていきます。楽団自身が「ウィーンの音」を前に出さなくなったのは2013年以降でしたが(第5章)、英米の批評家は、それより30年早く、この言葉を使わなくなり始めていました。

判定:英米の雑誌では崩れました。ただし、データは1980年代で終わっています。日本ではどうだったかを、サントリーホールの「ウィーン・フィル ウィーク イン ジャパン」の案内ページ(2013〜2025年、ウェブ・アーカイブで取得)で確かめました。案内の文に「ウィーンの音」という言い方はほとんど出てきません。使われていたのは、「ウィーンの伝統」「ならではの馥郁たる香しさ」(2013年)、「ならではのアンサンブル」(2015年)、「黄金の響き」(2025年)といった言い方でした。主催者の案内文を見るかぎり、日本でも「ウィーンの音」を正面から看板にしていたわけではありません。

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お金と市場(客足・旅)

仮説10 旅に出るのは、地元の収入が細ったときではないか(一部支持)

旅先の国の経済の大きさと、その国での公演の数は、時期によって0.49〜0.84の順位相関がありました。旅は、お金のある国へ向かっています。一方、地元の収入が細ったから旅に出た、という形が見えるのは1920年代だけでした。1930年代は、旅の公演がむしろ11%減っています。

判定:一部支持です。旅は「地元が苦しいから」より「向こうにお金があるから」で説明できる時期の方が長くなります。

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仮説11 1889〜93年の客離れは、物価高や入団試験の不調で説明できるか(一部支持)

公式史(ヘルスベルク)によると、1887/88年の定期演奏会は38,996.5グルデンの記録的な収入をあげましたが、翌年から客足が落ち、1893/94年まで止まりませんでした。

  • 同じ時期、歌劇場の入団試験がいくつも実らず、楽員の規律の乱れも総会で指摘されていました。
  • 1891年ごろには「食料品と日用品のひどい値上がり」で、楽員の手当の申請が急に増えています。
  • 1893年、楽団は主に平土間の後ろ12列の値段を下げました。公式史は、誇り高い楽員には屈辱だったと書いています。あわせて、楽員の知り合いに配っていたタダ券をやめると、1回の演奏会で平土間が平均49席多く売れました。
  • 1893/94年の収入は前の年をわずかに上回り、1895/96年には客足が落ち着きました。

判定:一部支持です。値段の手直しで客が戻ったことは、物価高の中で値段が合わなくなっていたことを裏づけます。質の乱れが重なっていた可能性も残ります。年ごとの収入の表は、公式史に載っていません。

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排除と、その変化

仮説17 「見た目の均一さ」という排除の理屈は、経済的にも根拠がなかったのではないか(支持。日本・アジア公演について)

楽団は、東アジアの人や女性を入れない理由に「見た目の均一さ」を挙げ、それが日本公演やニューイヤーの中継といった看板を守る、と考えていました(ペステル)。もしそうなら、女性や中東欧の人に門を開いた1997年以降、日本やアジアでの公演は減るはずです。

5年ごと 日本 アジア計
1975〜79年 30 30
1985〜89年 21 27
1995〜99年 29 35
2000〜04年 35 51
2010〜14年 36 42
2015〜19年 29 64
2020〜24年 29 61

日本での公演は、門を開いたあとも5年に30回前後で変わらず、アジア全体では、中国と韓国が加わって倍近くに増えました。

判定:少なくとも女性や中東欧の人を入れた範囲の多様化では、日本とアジアでの公演は減っていません。看板が傷むという理屈は、お金の面でも裏づけがありませんでした。東アジアの人自身を入れた場合については、まだ例が1人で、確かめられません。

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仮説18 排除が強まったのは、楽団の経済的な不安の時期と重なるのではないか(崩れた)

1920〜38年に楽団に入った50人のうち、ユダヤ系の出自の人は1人もいなかった、とトゥリュンピは書いています(例外は、試験なしで招かれたコンサートマスターのオドノポソフ)。ただし、マイヤーホーファーの伝記では、ユダヤ系の出自のゲリンガーとファルクが1920年に入っているので、正確には「1921〜38年に、オドノポソフのほかは一人もいない」です。この期間には、インフレで「確かな収入は南米公演だけ」だった1920年代前半も、経済が落ち着いて定期演奏会が「いつも売り切れ」だった1927〜30年も、客が減った1930年代前半も含まれます。

判定:崩れました。景気が良くても悪くても、採用の偏りは変わりませんでした。排除は、経済の不安に合わせて強まったり弱まったりしたものではなく、ずっと続いていたことになります。年ごとの採用数は、公式史にもトゥリュンピにも載っていません。

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仮説19 ユダヤ系の指揮者への態度は、アメリカ市場の利益で変わったか(支持。動機の記録は未確認)

この節の筋道:①戦後、ユダヤ系の指揮者との間には壁があった。②1965年ごろから、ユダヤ系の指揮者の公演が大きく増えた。③アメリカでの公演が安定するのは、その後だった。④したがって、「アメリカ市場がすでに大きかったから呼んだ」という単純な説明は合わない。ただし、市場を見込んで先に動いた可能性は残る。この順に見ます。

①戦後の出発点:1947年、バーンスタインはウィーン・フィルへの客演を直前に取りやめています。秘書への手紙には、「楽団はまだ60%がナチで、町じゅうがそれにならっているという報告だった」とあります(ハンフリー・バートン『レナード・バーンスタイン』1994年、p.165)。バートンは、この数字は「まずありえない」としつつ、噂でためらったことを書いています(同 p.175)。1960年代になっても、楽団の事務局長はナチ党の活動歴を持つトランペット奏者ヴォービッシュで、バーンスタインは彼を公然と「私のSS」と呼んでいました(同 p.354。第6章)。アメリカのユダヤ系の音楽家の間では、戦後の楽団は、まだ「ナチの楽団」と見られていたことになります。

数え方:演奏会を10回以上振った指揮者119人(演奏会全体の91%を占める)について、ユダヤ系の出自かどうかを、人名事典、伝記、Wikipedia の英語版と本人の国の言語版の本文で確かめました。ここでは、本人の信仰や名乗りではなく、ナチの人種法が誰をユダヤ人として扱ったかという基準で数えます。祖父母のうちユダヤ系が3人以上なら「ユダヤ人」、1〜2人なら「混血」とされました。排除の歴史を数えるための、排除した側の基準です。典拠に記載のない人は、名前から推測せず、ユダヤ系でない側に数えています。妻がユダヤ系だった人(カラヤン、エーリヒ・クライバー、ヒンデミットら)は、本人の出自ではないので数えていません。

119人のうち、ユダヤ系に当たるのは25人でした(マーラー、デッソフ、ワルター、クレンペラー、セル、ショルティ、マゼール、バーンスタイン、レヴァイン、プレヴィン、バレンボイム、ヤンソンス、クリップスら)。マゼールについては、両親ともロシア系のアメリカのユダヤ人とする紹介(Classical Music Daily)と、父をユダヤ系ロシア人とする紹介(ユニバーサル・ミュージック)があり、どちらにしてもこの基準に当たります。

②③10年ごとの割合(一つの演奏会に指揮者が複数いるときは最初の一人で数えた)

年代 演奏会 ユダヤ系の指揮者 マゼールを除く 主な人
1860年代 99 79% 同 デッソフ
1880年代 137 0% 同 リヒターの時代
1900年代 160 18% 同 マーラー
1920年代 709 5% 同
1930年代 721 21% 同 ワルター、クレンペラー(併合まで)
1950年代 774 5% 同
1960年代 664 24% 19% ショルティ、セル、マゼール
1970年代 713 24% 22% バーンスタイン
1980年代 786 51% 41% マゼール、バーンスタイン、レヴァイン
1990年代 897 34% 27%
2010年代 1,279 22% 18% バレンボイム、ヤンソンス

アメリカでの公演は、1956年の初めての旅(1955〜59年に16回)のあと、5年に0〜12回にとどまり、5年で20回を超えて安定するのは1985年以降です。アメリカの音楽誌 High Fidelity では、ウィーン・フィルに触れた箇所のうちバーンスタインが一緒に出てくる割合が、1960年代前半の0.3%から、1965〜69年に11%、1980年代に14〜15%へ上がります。

呼ばれなかった人(対照群):呼ばれた人だけを見ると、呼ばれなかった人が見えません。そこで、1850〜1960年生まれで、欧米の主な楽団や歌劇場の首席を務めた、ユダヤ系の出自の指揮者77人を別に挙げ、ウィーン・フィルを振った回数を数えました。42人は一度も振っておらず(ブレッヒ、ボダンツキー、ホーレンシュタイン、アンチェル、ザンデルリンク、フィードラーら)、10回以上振ったのは19人です。生まれの世代で分けると、10回以上振った人は、1860〜99年生まれでは37人中5人でしたが、1940〜59年生まれでは14人中6人に増えています。

判定:支持です。最初は「アメリカ市場が先に大きくなり、それに合わせて態度が変わったか」を問いにしていました。しかし、市場が大きくなる前にユダヤ系の指揮者を大きく増やし、そのあとでアメリカでの公演が安定したのなら、態度は変わったと見るべきです。利益を見込んだ先回りだったとも読めます。ただし、楽団がアメリカ市場を狙ってユダヤ系の指揮者を呼んだ、と書いた議事録などの記録は確かめていません。動機は推定にとどまります。また、同じ時期の指揮者の多くはデッカで録音していた人で、レコード会社とのつながり(仮説3)も重なっています。お金との関係は、仮説26で見ます。

なお、対照群は、ユダヤ系でない同じ格の指揮者と並べてはいないので、「ユダヤ系だから呼ばれなかった」の証拠にはなりません。世代が下るほど呼ばれる人が増えた、というところまでが言えることです。

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仮説26 楽団は、お金になるならユダヤ系の指揮者も迎えたのではないか(一部支持)

問い:ユダヤ系の指揮者が増えた三つの山(仮説19)は、どれもお金の入り口と重なって見えます。1930年代は、ドイツを追われた指揮者が来て楽団の「黄金期」になった時期です。シュトラッサーは「時世が私たちを助けた」と書いています。1960年代は、デッカの録音の時期です。1970〜80年代は、バーンスタインとアメリカ市場、映像の時期です。

マゼールという例:マゼールは1960年、アメリカ人として初めて、またナチの時代のあとで初めてのユダヤ系の指揮者として、バイロイトで振りました(Apple Music Classical の紹介、Slipped Disc の追悼記事2014年7月)。ウィーン・フィルへの初登場は1962年5月19日で、バーンスタイン(1966年4月2日)より4年早く、1960年代だけで40回振っています。マゼールがユダヤ系であることは知られていて、1980年にはアメリカの音楽誌が、プレヴィンらとともに「外国生まれのアメリカのユダヤ系の指揮者」として並べ(High Fidelity 1980年2月号)、レブレヒトもバイロイトの「ユダヤ人指揮者グループ」の一人に数えています(『巨匠神話』p.353)。ただ、当時の英米の音楽誌を見るかぎり、それが大きく取り上げられた跡はありません。マゼールが受け持ったのは、ニューイヤー・コンサート(33回)と日本公演(30回)、つまり楽団の看板がいちばんお金になる場所でした(仮説23)。

レコード会社の側も同じだった:デッカでウィーン・フィルとの契約を取り、クラシックの録音を取り仕切ったモーリス・ローゼンガルテンは、正統派のユダヤ教徒でした。カルショーは、ローゼンガルテンが、クラウスやベーム、バックハウス、カラヤンといった演奏家の「ユダヤ人への態度」を軽蔑しながら、「金を生み出す彼らの能力」とその軽蔑とを苦もなく折り合わせていた、と書きます。そして、ウィーン・フィルとの関係を大いに誇りながら、「私がウィーンで働いていたあいだ、一度もウィーンに足を踏み入れなかった。それが世界でいちばん反ユダヤ的な楽団だということを、よく分かっていたからだ」と書いています(カルショー『Putting the Record Straight』p.199)。

そのローゼンガルテンは、ウィーン・フィルの録音の印税を、毎年決まった額で「買い取る」取り決めを楽団と結んでいました。実際の印税がいくらだったかは、楽団に一度も明かしませんでした。カルショーは、これを「ずる賢いが、不正ではない」としながら、「ローゼンガルテンがこの取り決めで損をしたことは一度もなかったと確信している」と書いています(同 p.193〜194)。楽団の執行部は、毎年決まった額が入る安定を取りました。

対立する説明:戦後、世界の一線の指揮者に、中欧からアメリカに移ったユダヤ系の人が多かった、という人材の側の事情でも、同じ形は生じます。対照群(仮説19)で、世代が下るほど呼ばれる人が増えたことは、どちらの説明とも合います。

判定:一部支持です。ユダヤ系の指揮者が増えた時期は、お金の入り口が開いた時期と重なり、レコード会社の側については、出自や体質への嫌悪とお金とを折り合わせていたことが、当事者の回想で確かめられます。楽団とレコード会社は、相手の出自や体質を知りながら、金になる関係を続けていたことになります。ただし、楽団の側が「お金になるから」ユダヤ系の指揮者を呼んだと書いた記録は、確かめていません。

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参考文献

このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。

  • クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
  • フリッツ・トゥリュンピ『The Political Orchestra: The Vienna and Berlin Philharmonics during the Third Reich』ケネス・クローネンバーグ英訳、University of Chicago Press、2016年(独語原著 Politisierte Orchester, 2011年)
  • オットー・シュトラッサー『栄光のウィーン・フィル 前楽団長が語る半世紀の歴史』ユリア・セヴェラン訳、音楽之友社、1977年(原著 Und dafür wird man noch bezahlt, 1974年) リンク
  • ジョン・カルショー『Putting the Record Straight』Viking、1982年(邦訳『レコードはまっすぐに あるプロデューサーの回想』山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年) リンク
  • ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか』河津一哉・横佩道彦訳、文藝春秋、1996年 リンク
  • カール・フレッシュ『The Memoirs of Carl Flesch』(英訳)Bois de Boulogne、1973年版 リンク
  • ハンフリー・バートン『Leonard Bernstein』Doubleday、1994年 リンク
  • Friedemann Pestel, "Austrian World Practices: The Vienna Philharmonic and the Global History of Austrian Culture in the Twentieth Century", Central European History 58 (2025), pp.332–354 リンク
  • ウィーン・フィル公式サイト「Nationalsozialismus」の委託研究(オリヴァー・ラートコルプ、フリッツ・トゥリュンピ、ベルナデッテ・マイヤーホーファー、シルヴィア・カルグル/フリーデマン・ペステルほか。楽員一人ずつの伝記を含む) リンク
  • ウィーン・フィル公式サイトの演奏会アーカイブ(1842年〜。2026年10月取得) リンク
  • ウィーン・フィル公式サイトの楽員紹介(2026年10月取得) リンク
  • ウェルナー・ヒンク語り、小宮正安構成・訳『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』アルテスパブリッシング、2017年 リンク
  • 『High Fidelity』誌(アメリカ、1951〜1989年)World Radio History の公開アーカイブ リンク
  • 『The Gramophone』誌(イギリス、1923年〜)Internet Archive の公開分 リンク
  • ノーマン・レブレヒト「Slipped Disc」(ウェブ、2007年〜) リンク
  • Wikidata(指揮者・作曲家の国籍と生没年) リンク
  • 「Lorin Maazel」Classical Music Daily リンク
  • 「ロリン・マゼール バイオグラフィー」ユニバーサル・ミュージック リンク
  • 「ロリン・マゼール」Apple Music Classical リンク

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる(この記事)
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。