「ウィーンの響き」は本当にあるのか(第4章)何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
指揮者と曲目を自分たちで決める権利は、何を伝統に入れ、何を外したのか。1842年の取り決め、第九の扱い、新作の試演、1942年の「古典の守り手」という言葉、そして楽団が当時距離を置いたブルックナー、マーラー、シュトラウスのその後。存命作曲家の割合を1842年から数え直しました。
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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか
第3章では、演奏の方向をめぐって、楽団が主導権を持ち、指揮者がそこにどこまで踏み込めるかの綱引きが続いていたことを見ました。この章では、その主導権がどんな仕組みに支えられていたのか、そしてその権限で、楽団が何を伝統に入れ、何を外してきたのかを見ます。
先に、この章の問いを一つにまとめておきます。自分たちで決める権利は、何を伝統として残し、何を外すかを決める力と、どう結びついていたのでしょうか。
1 自分たちで決める仕組み
総会と選挙
ウィーン・フィルは、国立歌劇場の管弦楽団の楽員が、演奏会を開くために作った協会です。歌劇場では、楽員は劇場の雇い人です。けれども協会としての演奏会では、指揮者を選び、曲目を決め、収益を分けるのは、楽員自身でした。1967年の記念誌は、これを「民主的な共和国」と呼び、その元首である指揮者は「一回およそ二時間の任期で選ばれる」と書いています(ヴァイゲル編『ウィーン・フィルハーモニーの本』1967年、p.17)。
大きな決定は、楽員全員の総会での投票で行われました。公式史には、その記録が残っています。
- 1860年:常任の指揮者にオットー・デッソフを選ぶ(62票対14票対2票)。
- 1899年:マーラーを61票で選び直す。マーラーは受けなかった(第3章)。
- 1903年:常任の指揮者を置かず、客演の指揮者に任せる方式に変える(58票対42票)。
- 1908年:常任の指揮者に戻し、ヴァインガルトナーを選ぶ(106票中105票)。
- 1933年:常任の指揮者を廃止し、客演の指揮者だけで演奏会を開く方式に移る。
最後の1933年の転換は、今日まで続く形の始まりです。この方式は、自分たちで指揮者を選び続ける自由を守るものとして語られることが多いのですが、歴史家トゥリュンピは、別の面を指摘しています。客演方式への移行は、楽団長への権限の集中と一体だった、というのです。
1933年7月9日の総会は、委員会の提案を、反対2票で可決しました。楽団長が、指揮者の同意を得て、すべての演奏会でソロを受け持つ楽員を選ぶ権利を持ち、楽員は割り当てられた役を断れない、という内容です。トゥリュンピは、客演方式への切り替えも、多くの権限を楽団長の手に集める流れに沿ったものだったと見ています(トゥリュンピ『政治的なオーケストラ』英語版 p.253)。
ただし、集まったのは主に運営上の権限でした。同じころ、委員の任期を3年から5年に延ばす提案は、総会で53票対45票の僅差で退けられ、提案した楽団長は辞任しています(同 p.253〜254)。トゥリュンピは、ナチ時代を通じても、総会が大きな決定の場として残り、執行部の権限をおおむね抑えていたとも書いています。合議の場は残りつつ、日々の運営を握る楽団長の力が強まった、というのが正確なところです。第3章で見た、トスカニーニを迎えるために楽員に心得を用意した楽団長ブルクハウザーは、この1933年に選ばれた人です。
名誉は与えるが、権限は与えない
この仕組みには、もう一つの面があります。楽団に尽くした人に、名誉は与えても、権限は与えない、という扱いです。
第二次世界大戦が終わった直後、多くの指揮者が演奏を禁じられていた時期に、楽団を支えたのはヨーゼフ・クリップスでした。楽団の公式の演奏記録によると、クリップスがウィーン・フィルを指揮したのは、戦前が6回、1945年から1947年が56回です。ところが1951年から1964年までの14年間、彼がウィーン・フィルを指揮した記録はありません。1992年の公式史は、クリップスを「有能な、いや優れた音楽家」と呼びながら、「すべてを決める輝きだけが欠けていた」と書いています(ヘルスベルク『王たちの民主制』第12章)。一方、のちのコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンクは、モーツァルトの指揮者としてのクリップスを「群を抜いていた」と評し、彼の下でモーツァルトを弾いて退屈だったことは一度もない、と語っています(ヒンク語り下ろし 第1章 p.69。第1章を参照)。楽員の一人がそう評する指揮者が、定期演奏会には長く呼ばれなかったことになります。
14年間の空白の理由は、今回の資料からは分かりません。
注:演奏会からは外れていたこの時期にも、クリップスはレコード会社デッカのために、ウィーン・フィルと録音を続けていました。モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》全曲(1955年発売)や、ハイドンの交響曲第94番と第99番(1958〜59年ごろ)です。クリップスは英国の批評家に、第99番は、この録音でウィーン・フィルが初めて弾いた曲だったと語り、「無理もない。彼らは本当は歌劇場の管弦楽団なのだから」と付け加えています(『Gramophone』1958年7月号付録、1959年6月号)。第3章で見たとおり、楽団が演奏会の指揮者を選ぶ権利は、レコード会社の人選には及びませんでした。
確かめられるのは、戦後すぐに楽団を支えたことと、その後も招かれ続けることは別だった、ということです。公式史は、クリップスの音楽家としての力量を認めながら、決定的な輝きが欠けていたと評しています。楽団への貢献と、指揮者として選ばれ続けることは、必ずしも一致しませんでした。
公費は受けていた
楽団の自立を語るとき、「ウィーン・フィルは補助金を受けない」と言われることがあります。これは正確ではありません。トゥリュンピによると、楽団は1911年から国(文化教育省)の補助を受け、1913年には国から7,000クローネ、市から2,000、州から1,000、合わせて年1万クローネの公費を受けていました。財務省は増額に反対しましたが、楽団は「解散」まで持ち出して増額を通しています(トゥリュンピ p.149〜152)。
トゥリュンピは、この補助が、はじめから「見返りを得るため」のものではなく、「何の紐も付けずに」与えられたと書いています。見返りが定められていなかったことで、楽団は演奏を義務づけられることがなく、ベルリン・フィルのような新しい演奏会専門の楽団とも、自由に競争できました(同 p.149〜150)。公費を受けることと、演奏の中身を決める権利を手放すことは、ウィーンでは結びついていなかったのです。
コラム 仲間の協会と、出資者の会社
ウィーン・フィルとベルリン・フィルは、よく「対照的な楽団」として並べられます。その違いは、まず組織の形に表れていました。
ベルリン・フィルは、1887年に楽員が自分たちで会社を作り、1903年からは有限会社として運営されました。楽員はそれぞれ600マルクを出資して持ち分を得ました(トゥリュンピ p.61)。1930年代の初めには、国と市が出資者に加わり、その持ち分は「楽団より一票多い」ものになります(同 p.181)。お金を出した者が、決定の権利も持つ形です。
ウィーン・フィルは、楽員が会員となる協会でした。公費は受けましたが、出資者として決定に加わる者はいません。
社会学の言葉を借りれば、ウィーンは仲間の結びつきで成り立つ共同体(ゲマインシャフト)、ベルリンは契約と出資で成り立つ会社(ゲゼルシャフト)に近い形だった、と言えるかもしれません。ただし、この言葉は整理のための目印にすぎません。ベルリン・フィルも楽員が自分たちで出資して作った組織でしたし、ウィーン・フィルも公費を受け、行政と関係を持っていました。組織の形の違いは、どちらが人間的か、どちらが商売的かといった、楽団の性格の違いをそのまま意味するものではありません。
三つ目の形として、ニューヨーク・フィルがあります。レブレヒトの邦訳によると、1922年から1956年まで、楽団はアメリカ有数の演奏会の代理人アーサー・ジャドソンが運営し、彼が抱えるソリストや指揮者を売り出す場として使われました。ジャドソンは自分の給料のほかに、楽団員から10〜15パーセントの手数料を取っていたとされます(レブレヒト『巨匠神話』邦訳 p.296〜297)。楽員の協会、出資者の会社、代理人の運営。決める権利の置き場所は、楽団ごとに違っていました。
2 その権限で、何を伝統に入れ、何を外したか
1842年の取り決め
楽団は、創設のときから、何を演奏するかについての考えを持っていました。1842年の「フィルハーモニー演奏会」についての取り決めは、楽員が「古典的で興味深いものだけを演奏する」と定めています(トゥリュンピ p.91)。1992年の公式史も、「演奏する作品を最も注意深く選ぶこと」を、1842年以来の「フィルハーモニーの理念」の中心に置いています。
トゥリュンピによると、楽団の議事録からは、交響曲の曲目が1910年代まで固く絞られていたことが分かります。そして、その理由として繰り返し持ち出されたのが「伝統」でした。
第九は特別な時だけ
その一例が、ベートーヴェンの第九です。議事録には、次のような提案が記録されています。
伝統に従い、ベートーヴェンの第九交響曲は、フィルハーモニー演奏会の中で、ニコライ協会のためにのみ演奏することができる。 (トゥリュンピ p.101 に引かれた楽団の議事録)
ニコライ協会は、楽団の創設者オットー・ニコライの名を冠した、楽員の互助のための協会です。少なくとも当時、第九は通常の演目として自由に取り上げる曲ではなく、楽団の福祉のための特別な機会に結びつけられていました。
新作の試演
新しい曲をどう扱うかにも、楽団独自の手続きがありました。委員会がはじめから断らなかった新作は、楽団が試しに弾いてみて、総会の多数決で演奏するかどうかを決めました。1919年に、この試演をやめようという提案が出たとき、楽員の中からは、試演は他のどの楽団とも違うウィーン・フィルの慣行で、厳しい選別を保証するものだから、やめるべきではない、という意見が出ています(トゥリュンピ p.140)。
けれどもトゥリュンピは、こう書いています。
新作の試演は、作品の質を明らかにするためのものとされていたが、実際には、同時代の音楽を楽団の演目から締め出すために使われがちだった。 (トゥリュンピ p.141)
1917〜18年のシーズン、常任の指揮者ヴァインガルトナーが、シェーンベルクとシュレーカーの作品を一曲ずつ入れようとすると、委員会は全面的な防御に回りました。1920年6月には、コルンゴルトの序曲《スルスム・コルダ》の二度目の稽古のあと、楽員が曲に向かってしーっと野次を浴びせたため、作曲者が作品を引き下げています(同 p.141〜143)。
選別の手続きそのものが、伝統の一部として守られ、その手続きが、新しいものを外すために使われていたことになります。
例外の時期
ただし、楽団が同時代の音楽をいつも演目から外していたわけではありません。トゥリュンピは、フルトヴェングラーが多くの定期演奏会を指揮した1927〜28年と1929〜30年のシーズンには、同時代の音楽の割合が平均24パーセントになり、その後のクレメンス・クラウスの時期(1930〜33年)には、彼が指揮した59曲のうち20曲、34パーセントが存命の作曲家の作品だったと数えています(トゥリュンピ p.147)。
筆者も、楽団の公式の演奏記録から、同じ物差しで1842年から現在までを数えてみました。定期演奏会(1860年より前はフィルハーモニー演奏会)の曲目のうち、演奏した年に作曲家が存命だった曲の割合です。同じ曲を別の演奏会で弾けば二回と数え、分母は作曲家の生没年が分かる曲に限りました。
| 時期 | 曲目の数 | 存命の作曲家の曲 |
|---|---|---|
| 1842〜1918年 | 1,729 | 18.8% |
| 1919〜1937年 | 1,030 | 20.7% |
| 1938〜1945年 | 392 | 20.3% |
| 1946〜1954年 | 459 | 18.7% |
| 1955〜1979年 | 1,162 | 11.2% |
| 1980〜1999年 | 990 | 3.6% |
| 2000〜2015年 | 851 | 5.1% |
| 2016〜2026年 | 522 | 4.0% |
(生没年が分からない作曲家の曲は、時期によって全体の3〜13%あり、分母から外しています)
存命の作曲家の曲は、帝政期から戦後すぐまで、2割前後を占めていました。ただし、ナチ期と戦後すぐの数字は、リヒャルト・シュトラウス(1949年没)とプフィッツナーの曲が多くを占めています。10年ごとに見ると、1960年代はまだ17.5%あり、はっきり下がるのは1970年代(6.2%)からです。
この割合が下がったことは、楽団が新作を拒むようになったことと同じではありません。古い作品を選ぶようになったのか、演奏会の性格が変わったのか、割合だけでは理由までは分かりません。ここで言えるのは、「古典の守り手」という像が、少なくとも1960年代までの演目を十分に説明するものではない、ということです。
では、1970年代に何が起きたのか。定期演奏会に初めて登場した存命の作曲家について、存命のうちに何シーズン取り上げられたかを数えると、違いがはっきりします。1900〜49年に初登場した39人は、平均3.5シーズン取り上げられ、1シーズンきりだった人は28%でした。ストラヴィンスキーは19シーズン、ヒンデミットは7シーズン、存命のうちに繰り返し演奏されています。ところが、1970年以降に初登場した31人では、平均1.5シーズンで、68%が1シーズンきりでした。リゲティ、ペンデレツキ、ベリオ、武満、シュニトケらも、来てはいたのです。
しかも、1970年以降の一度きりの演奏45回のうち、指揮者の自作が7回、楽員の作品が6回、指揮者と同じ国の作曲家の作品が6回ありました。新しい作品を一度も演奏しないことと、一度は演奏しても繰り返す演目にしないことは、別のことです。1970年代以降の楽団は、新作を締め出したというより、誰かに花を持たせる形で一度は弾き、それを自分たちの演目の「在庫」にはしなかった、と言えます。戦前に見られた、新作を弾くことと、同時代の音楽を自分たちの演目として受け入れることのずれは、戦後にも別の形で現れていました(数え方と内訳は「仮説と検証」の仮説7)。
1939年と1942年:「古典」を言葉にする
1939年、楽団の規約は、協会の目的を「最高水準の管弦楽の育成。とくに古典音楽を重んじる」と定めました(トゥリュンピ p.549〜550)。オーストリアがナチス・ドイツに併合された翌年です。
1942年の創立百年の年には、楽団の性格が、さらに強い言葉で語られます。ここでは、性質の違う三つの言葉を分けて見ておきます。
- 制度の文書:1939年の規約は、上のとおり、協会の目的を定めたものです。
- 外の文化官僚の語り:帝国宣伝局の職を解かれたのちも楽団について書き続けたヴォルフラムは、ウィーン・フィルは「戦士でも、征服者でも、新しい音楽の土地の開拓者でもなく、司祭であり、すべての偉大な音楽づくりの究極の知恵の守り手である」と書きました(トゥリュンピ p.466〜467)。
- 内側の楽団長の語り:楽団長イェルガーは、「フィルハーモニーは実験の場ではなく、試行錯誤の楽団でもない。高い遺産の担い手である」と語っています(同 p.501)。
制度の文書、外からの意味づけ、内側の自己定義が、同じ時期に同じ方向を向いていたことになります。
ただし、これらの言葉は、楽団がもともとそういう性格だったことの証明にはなりません。上で見たとおり、帝政期や戦間期には、存命の作曲家の作品が演目の2割前後を占めていましたし、クラウス期には3分の1を超えていました。古典を重んじる姿勢は創設以来たしかにありましたが、それだけで楽団の演目の歴史を説明することはできません。1939年の規約と1942年の言葉は、楽団の過去の一面を「本質」として言い直したものと見ることができます。その言い直しが、ナチ時代に、「血と土」という言葉と並んで行われたことは、第6章で改めて扱います。
3 選び直された伝統
楽団が当時拒んだもの、あるいは取りこぼしたものが、のちに楽団の伝統の中心になった例があります。
ここでは三人の作曲家を取り上げますが、それぞれの経緯は同じではありません。
ウィーン・フィルは、ブルックナーの交響曲第2番、第4番、第8番、ブラームスの交響曲第2番と第3番を世界初演しています。ただし、公式史によると、ブルックナーの第2番は1872年の新作の試演でいったん落とされ、その採決のやり方に、匿名の楽員が異議を唱えています(ヘルスベルク 第6章)。最後の交響曲となった第9番の初演は、1903年、ライバルのウィーン・コンツェルト協会(いまのウィーン交響楽団の前身)が行いました。1992年の公式史は、楽団がこの機会を「理解しがたいことに」逃したと書いています(ヘルスベルク 第9章)。ウィーン・フィルが第9番を初めて弾いたのは、第3章で見た、1906年のザルツブルクでのリヒャルト・シュトラウスの指揮のときでした。
マーラーの場合は、拒んだというより、積極的に担わなかった時期がある、という形です。楽団は1912年、作曲者の死後に、ワルターの指揮で第9番を世界初演しました。けれども、第6番を初めて弾いたのは1933年で、ウィーン初演から26年後のことです。トゥリュンピによると、1920年代初めの「第一次のマーラー・ルネサンス」のとき、マーラーの作品を弾いたのは、ほとんどがウィーン交響楽団の前身の楽団で、ウィーン・フィルはそれにほとんど加わりませんでした(トゥリュンピ p.555〜556)。
初演を取るか逃すかは、指揮者の好みだけで決まったわけでもありません。世界初演が集まったのは、デッソフとリヒターの時代(1860〜1898年)です。この頃のウィーンには、交響曲を初演できる一流の演奏会の楽団が、事実上ウィーン・フィルしかありませんでした。1900年にウィーン・コンツェルト協会ができると、ブルックナーの第9番も、1920年代のマーラーの復興も、そちらへ行っています。楽団の選択は、楽団の中の芸術観だけでなく、ウィーンの演奏会の市場で、競争相手がいるかどうかにも左右されていたことになります(「仮説と検証」の仮説9)。
ヨハン・シュトラウスのワルツもそうです。楽団は、自分たちの格を上げる妨げになるとして、シュトラウス家の音楽と半世紀にわたって距離を置いていました(ヘルスベルク 第6章)。そのワルツは、のちにニューイヤー・コンサート(1939年に始まる)の中心になり、いまでは楽団の最も有名な顔になっています。ただし、ニューイヤー・コンサートがどういう経緯で始まったかと、ワルツが楽団の象徴になっていった過程は、別に見る必要があります。前者は第5章とナチ時代の文脈(第6章)で扱います。
ブルックナー、マーラー、シュトラウスは、いまではいずれも「ウィーン・フィルの音楽」として語られます。けれども、いずれも、今の位置づけが、そのまま創設当初からの姿だったわけではありません。楽団が距離を置いた時期や、演奏の機会を生かさなかった例があり、その後、これらの作品がウィーン・フィルを代表するレパートリーとして定着していきました。
4 この章でわかったこと
この章で見た楽団の自治は、主に、指揮者を選び、曲目を決める権限でした。その権限は、総会の投票という合議の形で使われましたが、1933年からは、運営の権限が楽団長に集まる形になっていきます。公費は受けていましたが、見返りの条件はなく、決める権利は楽団の手に残りました。
そして、その権利は、何を伝統とするかを決める力にもなりました。1842年の「古典的で興味深いものだけ」という取り決め、第九を特別な時だけに限る決まり、新作の試演という手続きは、楽団が自分たちの伝統を守る仕組みでした。同時に、試演の手続きは、同時代の音楽を外すためにも使われました。
けれども、伝統の中身は固定されていませんでした。ブルックナー、マーラー、シュトラウスは、楽団が距離を置いた時期を経て、のちに代表的なレパートリーとして定着しました。1939年と1942年には、楽団の過去の一面が「古典の守り手」という本質として言い直されました。
ただし、この章で示せたのは、伝統の中身が固定されていなかったことと、伝統を選ぶ仕組みがあったことです。その仕組みがどの時代にも同じように働いたわけではありませんし、演目の変化のすべてが楽団の意図した選択だったとまでは言えません。
自分たちで決める権利は、伝統を守る力であると同時に、伝統を選び直す力でもありました。ここでも、序で掲げた仮説、「器は残り、中身は動く」の形が見えます。器である協会と、伝統を決める権利は残り、その中に何を入れるかは、時代ごとに選び直されてきました。
では、こうして選び直された伝統と「ウィーン・フィル」の名前は、どのようにして価値を持つようになったのでしょうか。次の章では、楽団の名声がどう作られ、どう使われてきたのかを見ます。
参考文献
このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。
- クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
- フリッツ・トゥリュンピ『The Political Orchestra: The Vienna and Berlin Philharmonics during the Third Reich』ケネス・クローネンバーグ英訳、University of Chicago Press、2016年(独語原著 Politisierte Orchester, 2011年)
- ヴィルヘルム・イェルガー『Die Wiener Philharmoniker. Erbe und Sendung』Wiener Verlagsgesellschaft、1942年 リンク
- ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか』河津一哉・横佩道彦訳、文藝春秋、1996年 リンク
- ウィーン・フィル公式サイトの演奏会アーカイブ(1842年〜。2026年10月取得) リンク
- ウェルナー・ヒンク語り、小宮正安構成・訳『ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から』アルテスパブリッシング、2017年 リンク
- ハンス・ヴァイゲル編『Das Buch der Wiener Philharmoniker』1967年 リンク
- 『The Gramophone』誌(イギリス、1923年〜)Internet Archive の公開分 リンク
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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか
見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。



