シネ・イーラ ── 「怒りも贔屓もなく」(タキトゥス『年代記』1巻1節)

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音楽歴史  8,514字

「ウィーンの響き」は本当にあるのか(第5章)「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか

評判は旅公演より先に地元の客席で生まれていました。1848年の「世界最高の楽団」、空き待ち600人、1920年代の換金、ニューイヤー・コンサートの起点をめぐる公式史と研究者の対立、放送の契約に書かれた「ウィーンの響き」、そして金貨と名器の取り決め。

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか(この記事)
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

第4章では、楽団が自分たちで決める権利を使って、何を伝統に入れ、何を外し、何を選び直してきたかを見ました。この章では、そうして形づくられた伝統と「ウィーン・フィル」という名前が、どのようにして価値を持つようになったのかを見ます。

ここでいう価値には、二つの意味があります。一つは評判、つまり人々がその名前に寄せる信頼や憧れです。もう一つはお金、つまり入場料、旅の公演、録音、そして名前そのものを使った商品です。この章では、評判がどう生まれ、それがいつ、誰によって、どうお金に換えられたかを、順に見ていきます。そして最後に、その名前の価値を誰が使い、誰が得たのかを整理します。

1 地元で生まれた評判

「世界最高の楽団」は、早くから言われていた

ウィーン・フィルの評判は、外国への旅公演で広まったものだと思われがちです。けれども、資料をたどると、評判はまず地元のウィーンで、それも早い時期に生まれていました。

1848年、革命の混乱で宮廷歌劇場の上演が止まり、劇場の存続が危ぶまれたとき、ウィーンの新聞は、「ヨーロッパ第一の歌劇場」と「世界最高の楽団」が、このような勝手なやり方で解体の危機にさらされるのは嘆かわしい、と書いています(ヘルスベルク『王たちの民主制』第3章に引かれた当時の新聞)。楽団の創設から、まだ6年しか経っていません。

切符が手に入らない

1860年に定期演奏会が始まると、評判は具体的な数字に表れます。1860年から1869年までのあいだに、楽団の収入は60パーセント増えました。ほかの催しが客足の減少を嘆いているときにも、フィルハーモニー演奏会の人気は続き、切符は品薄になります。ある若い夫婦は、「子どもが生まれたら、すぐに申し込みの名簿に載せておこう」と冗談を言ったと伝えられています(ヘルスベルク 第4章)。

1866年、オーストリアはケーニヒグレーツの戦いでプロイセンに大敗しました。それでも、その年の演奏会は値上げをしたうえで全席が売り切れています。当時の新聞は、「値上げにもかかわらず、すべての席が埋まった」と書いています(同 第5章)。

1878年には、定期会員の席の空きを待つ人が、およそ600人いました。楽譜商で切符の販売を請け負っていたグートマンは、この「約600人の申込者」を根拠に、定期演奏会を4回増やすことを提案し、総会は多数で賛成しました。コンサートマスターたちは、演奏会を増やしすぎると、いまの定期会員の価値を損なうと反対しています(同 第7章)。

1880年代になると、名前そのものが商品になり始めます。楽譜商が、楽員の室内楽の演奏会の案内を、フィルハーモニーの定期会員に配るようになり、楽団の切符係がそれを禁じる、という騒ぎが起きました。「フィルハーモニー」という名前の集客力が、別の演奏会の宣伝に使われていたのです(同 第8章)。

いつも右肩上がりだったわけではない

ただし、この評判は、いつも安定していたわけではありません。公式史は、楽団の帳簿から、1889年から1893年まで、収入が10パーセント近く減ったことを指摘しています。1887〜88年のシーズンには記録的な収入を上げていたのに、です。理由ははっきりしません。曲目にも演奏評にも、芸術上の危機をうかがわせるものはなく、楽員たちも途方に暮れていました。当時の常任指揮者ハンス・リヒターは、1893年の総会で、「原因が私たちの側にあると言える人はいないだろう。これ以上良心的に稽古することはできないし、演奏の水準が落ちたわけでもない」と述べています(同 第8章)。

公式史自身が、「需要が大きいので収入は常に最大だった」という見方を、帳簿から改めているのは、注目してよい点です。

注:1872年、リヒャルト・ワーグナーは、楽団を「世界第一の楽団」と呼んで感謝しました。1875年にはヴェルディも、ほぼ同じ言葉で楽団を褒めています。この二つの言葉は、楽団の名声を語るときによく引かれます。ただし、ワーグナーの言葉は、彼がバイロイトの劇場の建設資金を集めていた時期の演奏会でのものです。公式史自身、「成功した演奏会のあとの作曲家の褒め言葉は、それほど重くはない」と書いています(ヘルスベルク 第6章)。

2 「音楽の都」という看板

この地元の評判には、政治の背景もありました。

歴史家トゥリュンピは、ウィーン・フィルとベルリン・フィルの歴史を、「看板(ブランド)の歴史」として読むことができる、と書いています。ベルリン・フィルが「メイド・イン・ジャーマニー」の看板と結びついたのに対し、ウィーン・フィルは早くから「音楽の都ウィーン」という看板を担いました(トゥリュンピ『政治的なオーケストラ』英語版 p.11〜12)。

トゥリュンピによると、この「音楽の都」という言い方が練り上げられたのは、オーストリアが1866年にプロイセンに敗れ、1870〜71年にプロイセン中心のドイツ帝国ができて、外交上の力を失った時期と重なります。外交で失った力を、文化の優位で埋め合わせようとする試みだった、というのです。しかもこの言い方は、はじめから過去を振り返る、反近代的な性格を持っていました(同 p.12〜13)。

1866年の敗戦の年に演奏会が値上げしても売り切れたことは、この文脈で読むと、別の意味を帯びます。公式史は、「軍事的な大敗のあと、人々は、すでに難攻不落の砦となっていた演奏会のまわりに集まった」と書いています。

3 外へ出なかった時代

評判が地元で高まっていたのに、ウィーン・フィルは長いあいだ、それを外で使おうとはしませんでした。

楽団の公式の演奏記録で数えると、1842年から1899年までの公演は年平均10.5回で、国外での公演は全体の1パーセントにすぎません。1900年から1917年でも、年平均17.7回、国外は7パーセントほどです(演奏記録から筆者集計。開催国の分からない公演は分母から除く)。

トゥリュンピは、これを市場の変化に背を向けた姿勢として描いています。1920年より前、楽員がフィルハーモニーの演奏会で得る収入は、歌劇場の月給のおよそ2倍ありました。歌劇場の仕事を減らしても、フィルハーモニーの事業を広げれば十分に埋め合わせられたはずです。それでも楽団は、演奏会の数を少なく、種類を狭く保ちました(トゥリュンピ p.99〜100)。第4章で見た、第九を特別な時だけに限る決まりも、その一つです。

対照的なのがベルリン・フィルです。1882年に創設されたベルリン・フィルは、創設の年のうちに二度の旅公演に出て、北ドイツやプロイセンの東の国境沿いの町を一か月以上かけて回っています(同 p.72)。ウィーン・フィルの国外公演は、長いあいだ限られていました。楽団が意識して希少さを守ろうとしたのか、歌劇場との兼業や演奏会の仕組みが結果として公演を限ったのかは、分けて考える必要があります。1878年に演奏会を増やすことにコンサートマスターたちが反対したように、希少さを保とうとする判断はありました。ただ、それが一貫した戦略だったとまでは、今回の資料からは言えません。結果として、ウィーン・フィルの評判は、長いあいだ地元の演奏会を中心に支えられていました。

4 名前を換金する

1920年代:インフレと旅公演

この姿勢が大きく変わるのは、第一次世界大戦のあとです。帝国が崩れ、激しいインフレで、前もって買われた定期会員の収入が目減りしました(トゥリュンピ p.163〜164)。楽団は、公演の数を増やし、外へ出ることで、それを埋め合わせようとします。

演奏記録で数えると、公演は1900〜17年の年平均17.7回から、1922〜29年には年平均73.2回へと、約4倍に増えています。国外の公演も、全体の4分の1に達しました。1922年には南米まで旅をし、リオデジャネイロやモンテビデオで演奏しています。1928年には、レコード会社His Master's Voiceと契約し、継続して録音するようになりました(同 p.140)。

時期 公演(年平均) 国外の割合
1842〜1899年 10.5回 1.0%
1900〜1917年 17.7回 7.3%
1918〜1921年 50.2回 8.3%
1922〜1929年 73.2回 25.4%
1930〜1937年 75.9回 10.7%
1938〜1945年 80.8回 10.8%
1946〜1949年 73.8回 17.5%
1950〜1959年 78.0回 36.1%
1960〜1969年 67.3回 21.6%
1970〜1979年 72.1回 27.2%
1980〜1989年 79.1回 28.5%
1990〜1999年 90.3回 34.3%
2000〜2009年 120.3回 33.4%
2010〜2019年 140.1回 32.8%

(楽団の公式の演奏記録から筆者集計。1公演は、記録に載った演奏会1件。定期演奏会、特別演奏会、音楽祭、旅公演、放送のための演奏会を含み、同じ曲目を別の日に演奏すれば別に数える。歌劇場での上演は含まない。国外の割合の分母は、開催国が判定できた公演で、判定できなかった公演は各時期0〜14件)

ナチ時代:ワルツと「ウィーンの響き」

ナチ時代には、「ウィーン」という看板そのものが、政治に使われました。

いまのニューイヤー・コンサートにつながる起点は、1939年12月31日、クレメンス・クラウスの指揮で開かれた、シュトラウス家の作品だけによる演奏会です。元日の演奏会としては1941年1月1日に始まり、戦後に恒例として定着していきます。ここで扱うのは、そのうち1939年の起点の意味です。この起点について、二つの資料は、はっきり違うことを書いています。

1992年の公式史は、楽団が自分たちの協会の独立を案じていたまさにその時期に、シュトラウス一家の作品だけを並べた演奏会で、「当時の世界に居場所のなかったオーストリアへの帰属を、まぎれもなく表明した」と書いています(ヘルスベルク 第12章)。

トゥリュンピは、これを名指しで否定します。シュトラウスの演奏会の始まりは、楽団が長く唱えてきた「オーストリアへの信仰告白」とはほとんど関係がなく、むしろ政治的な計算の結果だった、というのです。ゲッベルスはウィーンを「文化と楽天と音楽と陽気さの都」にしようとしていました。誰の発案だったかは資料から分からないものの、市も国も、こうした演奏会を定着させることに大きな関心を持っていた。楽団は1939年の演奏会の収益を、ナチの冬季救済事業に回してもいます(トゥリュンピ p.587〜590)。

トゥリュンピによると、楽団の公式サイトは、2012〜13年ごろまで公式史と同じ説明を載せていましたが、その後、より当たり障りのない文章に差し替えました(同 p.588〜589)。

この時期、楽団は帝国放送協会と、ある取り決めを結んでいます。

楽団は、大ドイツ放送のために、ウィーンの音楽、とりわけヨハン・シュトラウスの作品を、「ウィーンの響き」を体得した指揮者のもとで録音する義務を負う。 (トゥリュンピ p.590 に引かれた取り決め)

「ウィーンの響き」という言葉は、この連載の主題そのものです。その言葉が、ナチ時代の放送の契約の文面に、売り物の条件として書き込まれていました。トゥリュンピは、楽団が2013年の公式サイトの作り直しのあと、「ウィーンの響き」という言葉を前に出すことに慎重になった、とも書いています。その理由の一つは政治的なものだった、と彼は見ています(同 p.8〜9)。

戦後:旅、録音、金貨

戦後、名前の換金は本格的になります。1950年代には、公演の3分の1以上が国外でした。1956年には初めて日本を訪れています。

録音では、デッカがショルティとの《ニーベルングの指環》を1958年から1965年にかけて録音しました。第3章で見たように、楽団が演奏会の指揮者を選ぶ権利は、レコード会社の人選には及びませんでした。名前の価値は、楽団の外の会社によっても使われていたことになります。

1989年には、オーストリア造幣局(ミュンツェ・エスターライヒ)が、楽団の名前を冠した地金型金貨「ウィーン・フィルハーモニー」を発行しました。1989年10月8日、楽友協会の黄金のホールで、アバド指揮の楽団の記念演奏会の場でお披露目されています。楽団の名前が、演奏から離れて、金そのものの商品の名前になったのです。

この金貨の歴史をまとめた本には、関係した三つの機関の挨拶文が載っています。金貨は、楽団と造幣局の協力から生まれたもので、造幣局の挨拶文は、生みの親の一人として、当時楽団の資料係で、のちに楽団長となるクレメンス・ヘルスベルクの名を挙げています。この連載で何度も引いている公式史の著者です。そして、造幣局の親会社にあたる国立銀行の役員の挨拶文は、こう書いています。

ウィーン・フィルハーモニーは当時、「ウィーン・フィルハーモニー」という名前を使わせる見返りとして、国立銀行が楽団の弦楽器3挺を支援することを提案した。 (ウルズラ・カンプマン『ウィーン・フィルハーモニー ある地金型金貨の歴史』の国立銀行の挨拶文)

同じ挨拶文によると、国立銀行はその後、楽器への投資を広げ、いまでは38挺のコレクションになっています。第2章で見た、コンサートマスターたちが国立銀行から借りて弾くストラディヴァリは、この流れの中にあります。名前を使わせることと、名器を手にすることが、ここでは一つの取り決めとして結びついていました。

5 誰が名前の価値を使ったのか

ここまでの話を、名前の価値を誰が、何のために使ったかで整理してみます。それぞれが得たものの種類は違います。お金のこともあれば、威信や宣伝のこともありました。ただし、誰がどれだけ得たかを額で比べられる資料は、今回は持っていません。

  1. 楽員:19世紀から、フィルハーモニーの演奏会の収入は楽員の大事な稼ぎでした。1920年より前には、歌劇場の月給のおよそ2倍あったとされます。名前の希少さを保つことは、楽員自身の利益でもありました。1878年に演奏会を増やすことにコンサートマスターたちが反対したのも、その価値を守るためでした。
  2. 切符を売る商人:1870年代の楽譜商グートマンは、切符の販売を手数料で請け負い、その集客力を別の演奏会の宣伝にも使おうとしました。
  3. 国家と都市:19世紀後半には、外交の敗北を文化の優位で埋め合わせる「音楽の都」の看板として。ナチ時代には、ウィーンを「音楽と陽気さの都」とする政策の中で、シュトラウスの演奏会と放送の「ウィーンの響き」として。
  4. レコード会社:1928年のHis Master's Voice、戦後のデッカは、楽団の名前で録音を売りました。指揮者の人選には、楽団の意向が及ばないこともありました。
  5. 造幣局と国立銀行:1989年からは、楽団の名前を金貨の名前として使っています。楽団の側は、その見返りとして名器の支援を求めました。

名前の価値は、楽団だけのものではありませんでした。楽団が地元で積み上げた評判を、商人、国家、レコード会社、造幣局と銀行が、それぞれの目的のために使ってきたことになります。そして、金貨の例のように、楽団の側も、名前を使わせることを取り引きの材料にしていました。

指揮台の顔ぶれにも、市場との結びつきが表れています。音楽評論家のレブレヒトは、アメリカの音楽事務所の社長ロナルド・ウィルフォードの抱える指揮者が、ウィーン・フィルの演奏会の「四分の三」を押さえていると書きました(『巨匠神話』)。演奏記録と重ねると、その事務所の指揮者が振った割合は、いちばん多い1990年代前半でも半分前後で、「四分の三」は確かめられませんでした。目立つのは別の変化です。1970年代には指揮台のほぼ半分を、ドイツ語圏寄りの中堅の指揮者たちが振っていました。この層が、1980年代後半には15%まで縮みます。

代わりに指揮台に立ったのは、それぞれ違う舞台を受け持つ看板の指揮者たちでした。バーンスタインは193回のうち定期演奏会は26回だけで、旅公演、とくにアメリカ公演とテレビのための演奏会が中心でした。マゼールはニューイヤー・コンサートを33回、日本公演を30回振っています。ムーティとカラヤンは、ザルツブルク音楽祭が中心でした。楽団は指揮者を選ぶ権利を手放したわけではありません。けれども、選ぶ基準は、市場ごとに売れる看板の方へ寄っていきました。歌劇場の楽員が自分たちの演奏会で稼ぐために始めた楽団にとって、これは原点に戻る動きだったとも言えます(数え方は「仮説と検証」の仮説23)。

6 この章でわかったこと

「ウィーン・フィル」の評判は、旅公演で外に広めたものではなく、まず地元の客席で生まれました。1848年にはすでに「世界最高の楽団」と書かれ、1860年代には切符が手に入りにくくなり、1878年には空き待ちが約600人いました。ただし、1889〜93年のように、理由の分からない客離れもありました。

その評判を、楽団は長いあいだ外で使いませんでした。演奏会は少なく、種類は狭く保たれ、評判は地元の演奏会を中心に支えられていました。換金が本格的に始まるのは、第一次世界大戦後のインフレの時代からです。公演は約4倍に増え、国外の公演は全体の4分の1に達しました。

名前の価値は、楽団の外でも使われました。「音楽の都」という看板は外交の敗北の埋め合わせとして練り上げられ、ナチ時代には「ウィーンの響き」が放送の契約の条件になり、戦後は金貨の名前にまでなりました。ニューイヤー・コンサートの始まりのように、同じ出来事の意味が、公式史と外の研究とで正反対に書かれている例もあります。

序で掲げた「器は残り、中身は動く」という仮説に照らせば、この章は「器」の側の話です。名前という器は、地元での評判から始まり、旅公演、録音、放送、金貨へと、使われる場面を広げてきました。

その名前と伝統を守ってきた共同体は、その力を、誰に対して、どう使ったのか。次の章では、自治と伝統が、誰を守り、誰を排除したのかを見ます。

参考文献

このページで引いた主な文献と資料です。リンクは、本文を読める場所(貸出を含む)か、書誌の情報のページです。

  • クレメンス・ヘルスベルク『Demokratie der Könige. Die Geschichte der Wiener Philharmoniker』(王たちの民主制。楽団の公式史)Schweizer Verlagshaus、1992年
  • フリッツ・トゥリュンピ『The Political Orchestra: The Vienna and Berlin Philharmonics during the Third Reich』ケネス・クローネンバーグ英訳、University of Chicago Press、2016年(独語原著 Politisierte Orchester, 2011年)
  • ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 だれがカラヤンを帝王にしたのか』河津一哉・横佩道彦訳、文藝春秋、1996年 リンク
  • ウィーン・フィル公式サイトの演奏会アーカイブ(1842年〜。2026年10月取得) リンク
  • ウルズラ・カンプマン『ウィーン・フィルハーモニー ある地金型金貨の歴史』(国立銀行・造幣局・楽団の挨拶文を含む)

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連載 「ウィーンの響き」は本当にあるのか

  1. 序 楽器を替えても、「ウィーンの音」は残るのか
  2. 第1章 何が「ウィーンの音」と呼ばれてきたのか
  3. 第2章 何が変わり、何が残ったのか
  4. 第3章 誰がその音を作り、変えてきたのか
  5. 第4章 何が伝統を支え、何が伝統を選び直したのか
  6. 第5章 「ウィーン・フィル」の名前は、どう価値になったのか(この記事)
  7. 第6章 自治と伝統は、誰を守り、誰を排除したのか
  8. 結 それでも、なぜ私たちは「ウィーンの音」に憧れるのか
  9. 検証 仮説を立て、データで確かめる
  10. 付録 追われた楽員と、反ユダヤ・排斥の年表

見出しの写真:楽友協会 大ホール(Wien - Musikverein, großer Saal、撮影 C.Stadler/Bwag、CC BY-SA 4.0)を切り抜き、文字を入れて使用。加工した画像も CC BY-SA 4.0 です。